虚実/daily
例えば、このブログの記事全てが嘘だと僕がここで宣言したとして、それでどうなるだろう?
或いは、僕がここに本当の名前を書いて、それを信じる人がどれだけいるだろう?
騙っているのかもしれない。だから、語ってないのかもしれない。
騙っていないのかもしれない。だから、語っているのかもしれない。
さあ、どちらだろうか?
あなたはどう思う?
きっと、読んでいる人たちは他の記事を読み、全体の記事の傾向から独自に信頼性を―信じる信じないだの、ネタだのマジだのを判断してくださるでしょう。
僕は情報を提示し、僕を信じるか否かの判断はあなたに投げている。
それは、現実の人付き合いと同じ。
他人を信じるか信じないかは、その人の日頃の言動から推し量られる人間性で判断する。
信じてもらうには、信じてもらえるような言動を心掛ける。
信頼性は相互のコミュニケーションの中で醸成される。
真偽は、情報を発する側には無い。
虚実は、いつも受け取る側にある。
信じるか信じないか。
信じるという動詞は、自分だけのものだ。
僕は自分で判断している。信じるか信じないか、自分の判断を信じていて、そして信頼が外れたときは、自らの不明を恥じるだけだ。そして、学ぶ。
信じることで心が傷つくことは無いはずだ。
そこにあるべきなのは、もう見誤らないという決意。
虚実は自らの目で判断しなければ、いつまでたっても見えない。
「信じさせて」と請願する事は容易い。
しかしそれに「いいよ」と答えてそれを考え無しに信じたら、痛い目に遭ってしまうだろう。
信じるという好意は思考を要求する。
考えずに言われたままに動くのは、盲従だ。