血液型性格診断について小考察ver.2/侏儒雑感

案の定、こんな的確なツッコミ(被トラックバック先「Interdisciplinary」内の記事へのリンク)いただきました。ツッコミ受けた先でいろいろ考えた結果、かなり変節してこのver.2に修正しました。あんまり原型を留めていませんが、まあ元が悪かったとだけ言い訳させてください。では、どうぞご覧下さいm(_ _)m)

(070224一部整頓し、表現を改めました。主旨はほとんど変わっていませんのでバージョン変更はなしです)

このブログでは血液型性格診断ものは一度だけ取り上げていますが…

「血液型予測/性格診断 05/07 (Sun)」

僕自身は血液型性格診断が当たらない部類の人間です。

また、それが当たらない理由も、場面によってマインドセットを切り替えているからであるという自覚があります。

よって自身の経験を直接的に反映できない以上、血液型性格診断に対しては基本的に中立的な立場を取っていますので、その点ご留意いただきたいと思います。

さて、まずはこの記事をご覧ください。

「理系白書’07:第1部 科学と非科学/3 根拠ない血液型性格判断」(毎日新聞)

僕はこの手の血液型性格診断批判を見るといつも心苦しく思うんです。

それは、血液型性格診断批判者はこれを「科学的根拠が無い」として批判しているのに対し、多くの血液型性格愛好者は「経験的に有用である」として信頼している…そのすれ違いを感じるからです。

1970年代の能見親子の出版物がきっかけとなって大ブームとなって以降、心理学や社会学の方面から血液型性格診断の科学的信頼性について研究が積み重ねられているようです。その成果は、いずれも「血液型と性格の間に相関は見出せない」というものでした。そしてブームの発端となった能見親子のデータについてはその取り扱いについて問題があると指摘されています。

これらの経緯については、「血液型-性格関連説について」)、または、「CiNiiの論文検索>名古屋学芸大学研究紀要. 教養・学際編」内の「人類学よりみたる血液型と性格(齊藤基生氏)」(外部リンクに本文PDF)が簡潔にまとまっていて非常に参考になります。

(齋藤氏のペーパーにおいて、「一方、懐疑的であったり自分の血液型性格判断を快く思っていない学生(なぜかB型とAB型が多い)は、関係なさを好意的に受け止めている。」という点は血液型性格診断論争の実に面白い点を表しているので特にここに引用しておく)

では、このように大村政男氏や佐藤達哉、渡邊芳之などが1980年代から一貫して批判を繰り広げているにも関わらず、何故血液型性格診断はなお民間に信じ続けられているのでしょうか?

もっと強力な反証を提出するしかないのではないでしょうか?

これ以上どのような科学的証拠を示すことができるでしょうか?

バーナム効果は「血液型から性格を当てること」が簡単であることの説明にはなりますが、「性格から血液型を当てること」が簡単であることには繋がりません。

そのため、「性格から血液型を当てること」が偶然とは考えられないほどの的中率を持っているかについては―性格と血液型に相関がないという統計的な解析から当然予想される結果だったのですが―「認められなかった」と結論付けられています。

ざっと検索した限りでは、手を変え品を変えいろいろとやられているみたいです(この記事のver.1で書こうとしたような実験も既に行われているでしょうから下の方に打ち消し線入れて削除しました)。

ただし、確か数年前に実験結果を見たことがありますが、イマイチ解りづらかった…これはもしかしたら統計学自身が持つ難解さ、あるいは慎重さの代償なのかもしれません。

「統計で人を騙す方法」ではありませんが、統計と言うのは一般に解りにくい。だから、浸透しない。

個人的には統計学をもっとしっかり教えて欲しいと思うんです。どうにも身につき方が弱くて、うっかりすると騙されるので…。

しかし、それにしてもそういう弱点は残ります。

…このように科学的な説得にはかなり手詰まり感があります。

そして、その科学的反論の手詰まり感が故にニセ科学の論法で批判してしまっているのではないでしょうか?

最近の血液型性格診断批判の論調にはそういう息苦しさを感じます。

科学的にはやりつくされているのに、それでも信じる人は多い。

では、この問題をどう捉えるべきなのか?

あるある大辞典」で放送された血液型性格診断の回を見た時の僕の記憶では、「あるある」の姿勢は「血液型性格診断の信憑性を実験で確かめる→そしてやはり相関があった!」というものだったように思います。また、実験結果を番組内で見た人々の反応は「やっぱりそうなんだ」というものでした。(※ただし、「あるある」内で行われた実験は対照が不十分な非科学的なものだったと記憶しています)

更に卑近な例を引くとすれば、僕の周囲の血液型性格診断愛好者は「あるある」を端としたブームに対して学会が警鐘を鳴らしたことを把握した上で、「科学的にはどうだか解らないけれど、当たるよね」という態度でした。また、これらの愛好者は信頼の度合いが強い人ほど他人の血液型を当てるのが上手いと僕自身も感じています。

つまり、僕が思うに血液型性格診断批判者が考えているのとは異なって、血液型性格診断愛好者は科学的根拠ではなく自身の経験を元にして血液型性格診断を信頼しているのではないのでしょうか?

だから、血液型性格診断は既に、能見親子のニセ科学的主張から離れて、民間の経験則、あるいは迷信、俗説と呼ぶべきものに変じてしまっていると捉えるべきではないでしょうか?

そのような局面において、強弁は却って信じる人々と科学との対立要因となるのではないでしょうか?

さて、そういうわけで、そんな苦しい戦いはも止めにして、血液型性格診断については科学的には解決済みの問題としてさっぱりと取り扱うことにしてはどうでしょうか?「ああ、あれ?科学的には信憑性無いってさ」それをさらっと言う、そのさりげなさが場の熱を奪うのです。

占星術や姓名診断だって「当たるも八卦、当たらぬも八卦だよ~」と当たらなかった人がさらっと言うことで、さあっと場の空気が「そうだよね。何熱くなってんだろうね」ってなるわけです。あれと同列で扱えばいいのです。もはや信じたいものにだけ信じさせておけばよい。

ただし、それにはこれらの占いを全ての判断基準となるような人間に育たないように、科学的な考え方をしっかり身につけられる教育が最低限施されていることが条件となるでしょう。差別の問題もそうです。検索すると人事に使ったりとバカな人が居るとかなんとか…。性格を四種類しか見出せないなんて短絡思考にもほどがあります。せめて数秘術の11くらいには…というのは冗談として。

某オーラの人がゴールデンに進出らしいですし、結構日本は末期な気がします。

このような非科学的な傾向は、科学者が科学が持つ慎重さを明快に伝えきれずに優柔不断に見えているからではないでしょうか?

内的には毅然としてかつ正確に、外的にはわかりやすく柔軟に、効果的な主張を重ねることが重要だと思います。

その意味で、以下の引用部分は少し気に入らなかったのでした。

首相官邸のホームページで安倍晋三首相のプロフィルに血液型が書いてあるが、輸血時に必要だからという理由ではないはず。血液型と性格に関係があるという非科学的な考えが根強く残っているのは、科学技術立国として恥ずかしい」と松岡さんは話す。(リンク先記事より引用)

参考→「安倍総理プロフィール」

別に恥ずかしくは無いと思いますし、憶測だけでそこまで言い切っちゃう方が恥ずかしいです。(旧コメント)

ここで僕が気になったのは、

1)この一連の主張の締め括りのくだりが憶測で成り立っていることで全体の説得力を損なっているのでは?

2)松岡氏あるいは毎日新聞は、血液型を掲載している真意を首相官邸に取材した上でこの記事を掲載すべきだったのでは?(恐らく「輸血のためです」と返答されるであろうが)

3)「恥ずかしい」という言葉尻も、相手の感情を揺さぶる言い方で科学的潔さが無い。確信を持った発言であるならば「間違っている」ときっぱりと断言すべきでは?

4)非科学的である批判するのであれば、干支や星座も併せて批判すべきでは?

…ということ。

さらに何故恥ずかしくないかというと、

政治的には話題づくり、あるいは無意味な親近感の誘起を目的として、このような生年月日やら星座やら干支やら血液型を利用するぐらい、鼻歌交じりにやっても恥ずべきところはなんでもないと考えるからだ。それに踊らされる者がいるから利用するまでであって、そんなお遊びを真剣に取り扱おうとし、そして不十分であったというのは、取り扱おうとした側の恥と捉えるべきだろう。「ネタにマジレス」的な恥ずかしさ、と言うべきか。

…とか、そういう理由です。

率直に言うと、「そんな細かいこと言わずにどーせ遊びなんだから」という気分もあります(←多分、こういう態度に血液型性格診断を嫌っている人には一番イラつくのだろう)。

この安倍首相のプロフィールに載るほどに、占星術も血液型占いも既に根付いてしまっています。

科学に出来るのはそれを判断の軸にしないような、合理的な精神を持った人間を育成することです。

そして、血液型占いを占星術と同じカテゴリに放り込んでください。

そしたら僕は安心して次の記事「血液型性格診断について/トンデモ」を書くことが出来ます(笑

そういう根絶をせずに無力化するに留める方針で行って欲しいんですよね…僕は寛容すぎますか…?

以上です。

リンク先で助言いただきました…

TAKESAN in Interdisciplinary

柘植さん

きくちさん(恐らくkikulog

本当にありがとうございました。

(追記071212)

これに関連する新しい記事「(蒸し返し)血液型性格診断/侏儒雑感」を上げました。

どうでしょう?違いが見ていただけますかねぇ…?

僕の血液型性格診断に対する態度は多分この記事に表れていると思います。

いつか書こうと思っていましたが、年の瀬になってしまいました…思えば遠くに来たもんだ。

お暇な方は、どうぞ。

(反省会)

ニセ科学の定義を「反証不可能性」だけだと思っていた。

 これを批判の一つの軸としていた点が最大の問題。

・現実には、反証可能なニセ科学が存在する。

 確かに「水伝」もそうだ…

・視野が狭い。自分で何が書きたいか解っていない。やはり理屈屋が停止して、自分で調べ物をしたり論理構成をチェックする能力が無い日はこういう繊細なテーマは取り上げるべきではない(半分以上記事の中途半端さへの反感の勢いだけで書いたからな……)。速報性とのジレンマはあるが、これだけの再編集を必要とするのならば安易な記事作成はむしろ害悪である。

(反省会終了)

以下、ver.1の残骸。

ver.1の問題は、短絡思考にあるな。

それから、自分で調べたり修正する気が無いなら書くな。

それに、血液型診断を信じている人たちは「科学的っぽい説明」があるかどうかではなくて、実際にそれを当たると感じているから信じているのだと思います。

また、反証実験を行う上で重要となるのは、血液型診断が好まれる本質が「A型=きっちり、B型=協調性が無い、O型=大雑把。AB型=謎」というようなレッテルにあるのではなく、A型とB型が相性が悪いとか、O型が場を取り持つとか、そういうグループ内での相性の確認みたいなところにある点だと思います。

話していると「僕はA型だけどO型っぽい」とか「お前はB型だけどA型みたいな所もある」とか、そういう微調整を行っているケースが多いです。

人によっては血液型診断を予断に用いる人がいますが、そういう決め付ける人は例外なく嫌われますよね。これを争いの素とするか、話の種とするかは、個々のコミュニケーションスキルの問題だと思います。

僕は逆に根強く残っている理由を科学的に研究すべきだと思うんですよね…。信じられるからには信じられるだけの的中率があると思うんですよ。そして、信じられるポイントは上記の通り、レッテルではなくより本質的な血液型同士の相性にあると思うんです。

それから、血液型を比較する際はかならず親の血液型も考慮すべきだと思います。

例えば、僕はB型とO型の子のO型であり、両親を足したような性格です。こういうケースを考えるには僕を単純にO型と位置づけるのではなく、「B+OのO」と二次的要素まで考慮べきと思います。本当は念には念を入れて三次的な要素まで見たい所ですけど、実際祖父母レベルだと血液型が簡単に解らないでしょうからね。

それから、人格が未成熟な幼児の実験結果と、人格が完成された成人の実験結果を対照することも重要でしょう。ついでに発達心理学上の発見があるかも。

実験は血液型診断に良く使われるレッテルに対する自己評価と他者からの評価を対比する形、それから、血液型の相性について印象の良し悪しを5段階評価で訊く形の二本立てではどうでしょうか?

血液型が生理的に性格を決定付けることは考えにくいですが、家系的なコミュニティにおける役割分担に関係しているとは思うのです。

それも明快な傾向ではなく、弱いながらも普遍的な…そういう方向で何となく、結果が出そうな気がするんですよね…。