差別語の無い日常/daily
僕は、こういう「くさいものにふた」方式の対処法は意味が無いと思っている。臭い物にふたをしたところで、臭い物は臭いままだ。いや、これまで以上に臭くなるかもしれない。
確かに、これまでこういう語によって傷つけられた人たちにとっては耳にするだけでもつらいことかもしれない。だが、それは根本的な解決ではないし、むしろそれが差別語に分類されたまま永遠に残り続けることになるかもしれない。
差別は言葉が先立つものではなくて、意識に基づくものだ。
言葉の差別を無くしても意識の差別が無くならなければ差別はなくならない。それは表面の対処でしかなく、人を根から腐らせてしまうことになりかねない。
「めくら」という言葉は目が見えない人を指す。
「ちかめ」という言葉は近眼の人を指す。
ただそれだけだろう?
それが差別語になる時とは、使う者に差別意識がある時だけだ。
(追記)
よく考えたらハレの場ではこれらの人々を遠ざけるというようなことも行われていたという話もあった気がする。
…その来歴を考えると、この段落の論法は危うい。
ただ、ここでは4行目だけを強く主張したいことだけ付記しておく。
言われた側も、相手が僕を傷つけようと思って言った時と、何気なく言った時の区別くらいつくだろう。それぐらいの冷静さはあってしかるべきだと思う。
また、周囲もそういう冷静さを持てるように障害者を自然に育てるべきだと思う。
差別したいとか、優位に立ちたいとか、そういう本能が人間にはある。
しかし、それを本人にはどうしようもない身体的特徴を侮辱することによって達成しようとするのは、最も卑しい精神だ。そういう認識があれば、自然と言葉から差別はなくなると思うのだけれど。
言葉は常に変化する。
それは意識が変化するからだ。
意識の変化によって言葉が浄化されることもあるだろう。
僕は自然消滅的に差別語が差別語でなくなるべきだと思っている。
そもそも、「犬」はどうしたらいい?
「馬」や「鹿」は?
言葉じゃなくて人間が変わらなくてどうするの?
…というわけで、動物名に限らず過去の書籍を修正したり、時代小説での使用にまで目くじらを立てるのは勘弁していただきたい。
必ず脚注をつけるから。
差別語であった来歴が一般常識になればこんな問題起きないのに…