いじめといじり/思索

「いじめ」と「いじり」の違いは主観の違いであり、本質的には同じものである。

内容は同じであっても「いじめ」であるか「いじり」であるかは判断する人によって異なる。

例えば、中学1年生の当時僕が受けていた行為と、また、別の人にやっていた行為とを、僕は当時「いじめ」であると判断していた。それはとても邪悪なもので、僕も彼らも同様に死すべきものと思っていた。

しかし、今から考えればそれは「いじり」であり、早期にもっと毅然として対応すれば「いじめ」とまではならなかったろうと思っていて、そして、それは僕と彼らの未熟さの結果だったのだと思っている。(…しかし、毅然として対応できないからこそ「いじり」はエスカレートして「いじめ」に発展するのだけれど。だから、「いじめ」になる前に「いじり」の段階で手を打つ必要がある)

「いじり」というのは、集団の中で何かに劣ったものを笑いの種にするという行為である。

その劣った部分は、例えばそれは無知であったり、無分別であったり、または、場の流れの中ですっとぼけたことを言ってしまったというような「場違い」であったりする。それは作為的に造られる場合もあるし、自然発生する場合もある。その「もの笑いの種」はネタと呼ばれたりする。これを掴まえるのが上手い人が、「面白い人」として評価される。

嘲弄とは手っ取り早いストレス解消の手段であり、それは上手く使えば人間関係に良好な結果を生むだろう。嘲弄を導くには二種あって、自ら道化となって笑いを取る笑いと、他人をピエロにする笑い―つまり、いじり―があって、この嘲弄は多かれ少なかれ大人の集団の中でも行われている。(皆さんが大好きなダウンタウンだって後者の笑いが随分と多い)。

しかし、「いじり」が長期間、同じ人に対して行われると、いじられた人はストレスを感じるようになる。自尊心は傷付けられ、物事への意欲を失う。この段階に至るとそれは「いじり」とは呼べず、「いじめ」と呼ぶべきものとなる。受け手の変化によって「いじり」から「いじめ」へと変化するのである。

まして悪い事に、同じネタで笑いを取り続ける事は難しいために、新しいネタへ、より刺激的な笑いへといじる側もエスカレートしていく。しかも、やる側にとっては同じ「笑いを取る」行為であるために、「いじり」から「いじめ」への変化は意識しにくい。

このやり手と受け手の意識の違いがいじめの恐ろしい点であるように思う。

いじめの張本人を怒っても、思った以上にあっけらかんとしている。

彼らにとってはみんなのストレスを解消するために笑いを取った、娯楽を提供しただけであり、それほどの邪悪とも感じていないのである。

もし、彼らがいじめの対象を自分と同レベル―同種と言い換えても良い―と感じていなければ、死んだところで悲しみも感じはしないだろう(これは人間観に関わり、いじめとは少し趣を異とする話題であると思う。つまり、「現代は人を人と思わぬ者が多過ぎる」)。

では、「いじめ」と「いじり」の線引きをどうやってするかと言うと、それはやはり、「いじめ」または「いじり」を受けている当人の判断によるしか無い。自分が受けている行為がイヤなのか、それともネタと解っているのか、それを質すのである。

そして、嫌がっているのであればやめさせる。どうやってやめさせるかというと、それは年齢的にも、いじりの段階的にも早ければ早いほど教えるには良いが、「他人の嫌がることはしてはいけない」でしかありえないだろう。注意すべきは、ただ他人の嫌がる事を禁じるのではなく、そこに個々の感じ方の違いが存在する事を強調する事を忘れてはいけない。何故なら、子供は自分の価値観を絶対と思いがちであり、他人が嫌がっていると信じる事がなかなかできないからである。

「他人の嫌がることをしてはいけないよ。君はニンジンが嫌いだけど、彼は嫌いだと思ってはいない。感じ方は人それぞれに違うんだ。だから、君がやったことは君自身がやられても嫌じゃないだろうけど、彼は嫌だと感じたんだ。彼が嫌がっていることを理解して、嫌がっている事はやらないようにして欲しい」

それをどれだけ早い段階で教えられるかが、まず一つ重要な事であるだろうと思う。

逆にいじめられた子の方にも、「単純に嫌というだけでは向こうも面白がるから、嫌なことこそ一見気にして無いように見せて、上手く切り返すように頑張ろう」と教える事も必要…難しいけど。

いじることで笑いを取ろうとする人は一つの組織に一人はいる。この「いる」は「居る」というよりも「要る」場合すらある。敵対する組織を揶揄したりしてこちらの士気を上げるというように彼らが役立つ場合もある。彼らの多くは配慮が足りないが陽気なタチで、ムードメーカーとなる。彼らが一定の評価を得る限り、いじられキャラというのはいじられる運命にある。いじられやすい人たちは精神衛生上、自分にストレスのかからない範囲にいじりをコントロールする術を身に付ける必要がある。だから、それを習得する意識を持つよう啓発することも重要である。

いじめが発生した場合のケアは、つねにいじめる側といじめられる側の双方に成長を促す事で行われるべきだ。

罰するだけでは「次からはばれないようにやろう」となり、無視や失せ物などの直接的でないいじめに移行してしまうからだ。

担任は常に生徒に目を配り、その子供が嫌がる言葉・行為を見抜き、クラスのリーダーの言行を戒めなければならない。いじめをやるにはクラスの中心人物が関わらなければ大規模化はしない。ただ、表のリーダーだけでなく影のリーダーもいるので注意が必要だ。また、ナンバー2は意外に物分りの良い人物がつきがちなので協力を得る事も大事である。

ただし、ここに書いているのは対症療法であって、予防法ではない。

続いて予防法について考えたいと思う。

→話し合いと感謝