中二病とエヴァ/daily
中二病、という言葉が存在するんですよ。
とても面白い言葉です。
詳しくはこちらをご覧下さい↓
⇒http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%E6%C6%F3%C9%C2
この言葉を思い出しました。
あ、僕も闘病中です♪
こんな言葉を編み出すとは、伊集院光は本当に頭良いよなぁ。
ホント、なんでスポーツ魂終わっちゃったんだろう?
光プレーのコーナー楽しみにしてたのに……脱線した。
中二と言えば、14歳。
14歳と言えば、エヴァンゲリオン。
…というわけで、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」が公開中ですね。
なんか、「序」はほとんどTVアニメ版と同じらしく、「破」からどう変わってくるのかが注目されているようです。
当時15歳だったんで、僕もがっつりいわゆるところの「エヴァ世代」です。友人達もハマってました。
僕は、部活があったのでリアルタイムでは見て無いんですけどね。
結局見ましたけど。(漫画とTVアニメでぜんぜん展開が違うのね)
あの最終回は、26話で話数が足りなくなったけれど作品のメッセージだけは込めたくて、結果ああなっちゃったんだろうな、と思います。
自我の確立と言うか、何と言うか…つまり、中二病と関わってるな、というか。
ま、そんなことは他に多くの考察が書かれているから、僕が書かなくたってどうでもいいか。
自己の定義なんか、一生追い求め続けるもんなんだ、ってことよ。
環境が変化して、自分が変化する。
自分が変化して、環境を改変する。
それの連続。
そして、連続していながらもお互いに完全に理解し会うことはできない。
だから、人は一人でも生きていていい。しかし、理解し合おうとするべきだ、ってことがテーマなのだと僕は理解した。
例えば、これは、僕にしか理解できない方法で理解してしまっていて、他の人が、或いはもし当時の僕が見たとしたら、どう理解しただろうか、何てコトは解らない。でも、それを知ろうとすること・考えることが重要で、その意味で完結していた作品が、あの当時、理解されずに劇場版での“更なる完結”を求められた庵野監督は困惑したろうな、と思う。
つまり、そういうテーマなのに、回答を求められること自体に絶望があるというか……
そういう経緯がありながら、その上で新たに劇場版を作り直すと言うのは、庵野監督の心境の変化にはすごく興味があるな。
映画を見たいと思ったのは初めてかもしれない。
ま、断片的にそういうことを考えた。
面白かったです。
便利な時代になったもんだ。
(察する人は察してるでしょう。察することができない人はきっと解説待ちでしょう。僕って隠微だなぁ。それとも露骨?)
時代は変わったよ。
なのに一周して来て、僕は過去を振り返ったのに、それが今を見ているのと同じになったように錯覚させられそうになった。
でもきっと、微妙に違ってる。
みんなは、どう変わった?
そういうことなんだよ、これはきっと。
さて、じゃあ、自分は何なのかを定義する作業に戻るとするか。
作業しないと、僕にだって僕のことは全然解らない。
物理的な何かに変換しないと、自分でも認識できない。
結局、これ書いても何ら自分自身で納得することができなかったけれども、でも、満足はした。
そんなもんか。
(070911追記)
すっかり忘れてた。
エヴァを見たことによって、エヴァがその後の創作にいかに影響を与えたかを思い知った。
例えば、というか既に飽きられるほど言われているけど、アスカはハルヒに、長門は綾波に直結している。あの作品の登場人物は、結果的に「救われた」という実感を与えられなくて、試練の下にあるままに放置されてしまった。それを、エヴァに影響された創作家達がこぞって救い出そうとした。それが、当時ティーンズだった世代の創作の淵源の一つとなっている気がする。
それから、「組織とは何か」を描くもの、これは遡ってパトレイバー以降と捉えるべきかもしれないけれど、そういうものも意識されるようになった。
あと、謎本の爆発的売れ行きを経て、“薀蓄系”が伸張したのだろうと感じた。膨大なバックグラウンドを有して、それを細かく説明せずに、スパイスとして扱うというストーリーテリングの上での処理の仕方というのは、ここが一つの分岐点だったのではなかろうか。甲殻機動隊の士郎正宗は設定の鬼だけれど、設定が表に出すぎて物語を圧迫する嫌いがあった。そして、エヴァ以後に設定解説を略したアニメがヒットした。(詳しく知らんが巷聞の印象の総和で)ガイナックス自身はもっと以前からそうしていたっぽいけど、エヴァ以降、詳細な裏設定を好む作家は増えたように思う(そして、大抵消化不良に陥っている)。言い換えると、往々にして後付設定を巧くこなす方が大成しやすいのに対し、先行設定を消化しきれない新人が増えた、という気がする。別の見方(配給側的見方?)では、ヒットのハードルがそういう形で上がった。ファンの好みが細分化したということ。表面のストーリーが面白いだけでなく、明かされていない設定を推測する楽しみが求められるようになった。
例えば、ドラゴンボールとワンピースの違いのような。
メッセージとは裏腹に、“オタク的”の深度が増した元凶と言われても仕方ないと思う。
(斯く言う僕も設定マニアである。見てないくせに謎本を読み漁ったくらい)
これらは、エヴァだけの特徴ではなく、同時期に同世代のクリエイターによって同時進行的に行われたにも拘らず、エヴァンゲリオンが18時台という時間帯でアニメと言う媒体でダイレクトに14歳の心の裏側を衝いたために起こった現象であったと思われる。
庵野監督が次にやった「カレカノ」はそれを少し位相をずらしたチャレンジであったのかもしれない。SFでなくて、学園でやったということ。
……ってことを考えたのも思い出した。