何がオリジナル?/daily

体の構成素は全人類で共通で、設計図たる遺伝子は親のコピー。

頭の中の知識はどこかから写し取ってきたもので、僕という存在を構成する物事を細かく細かく見ていくとオリジナルなものなんて僕の体の何処にも無いと気付く。

しかし、僕は世界に一人しかいない。

僕という存在はこの大宇宙に唯一である。

それは、その構成する物事の組み合わせが僕特有だからだ。

同じ理屈で誰もが独特であり、互いに異なっている。

(自己という存在の広がりの捕らえ方において、僕を独立した部分と見るか全体の一部と見るかという違いによって、この全ての物事がその組み合わせによって独特であるという考え方は影響されない。全にして一であり、一にして全である。どの切り取り方でも全ての部分は互いに独立している…のだろうと思う…?)

そうやって異なっているのにパクリだのなんだのとなるのは、つまりあらゆるアウトプットがそれら独特の存在からの要素の抽出からなるためであり、材料が同じでそういう抽出を行えば生成物が似てしまう可能性はどうしても生じてしまう。

個人が特別であってもその抜粋である生成物は特別たりえないのである。

(僕のこの記事も全く独創的ではなくて、むしろ複製的である。それもかなり程度の低いコピーである)

更に、観測する側の問題として、その解像度によって似ているか似ていないかの判断も異なってしまう。

前述の通り、あらゆる物事は限られた要素からなる。その微細な要素まで見ていけばあらゆる物事は“似ている”ことになってしまう。

もっと全体を見通して、粗く見れば似ている部分もぼやけてもっと重要なものが見えるかもしれないのに。

人間はそれぞれ違って見えるのに、猿は同じ猿に見えてしまうように、その観測者を構成する要素によって、実在の解釈は異なってしまう。

著作権というのは、著作物がオリジナルかオリジナルで無いかは問題じゃなくて、優れた著作物の著者が、その才能によって満足に食えるか食えないかが問題なのだ(だから、パクリやオマージュを取り締まろうというのは、過剰反応に見える)。

(以下、調べて書いたわけではない単なる予測)

歴史的には活版印刷によって特権階級が居なくなることによって、サロンで養われていた芸術家が特権階級からメシを食えなくなった替わりに活版印刷による出版物に権利を付きまとわせる事でメシの種にしたとか、著作権ってそういう生まれ方をしたのではなかろうか?

その意味で、著作権の延長がどのように著作権者に利益をもたらすかは非常に予測が困難な事であり、現実にコピー技術が向上する中で著作権管理を行う事も難しくなったり、また、著作権保護の強化によって真似ることで学ぶことが困難になり、後進の育成に悪影響が出る恐れを思うのならば、やはり著作権の延長には反対だと思います。

つまり、そういう技術の進化がある職業の在り方を変えてしまう事なんかザラで、通信革命は情報分野における言語、印刷に次ぐ第三の革命だったと思うから、それなりに大変化しないとおかしいわけで、そういう過渡期にいるんだっていうことを今議論しているエライ人たちは意識してるのか疑問に思っていたり。

(やはりアウトプットのプロセスに随分とロスが多いと思ったり)

言いたい事がぼやけているけど、つまりは、保存すべきは個人であって、先んじた事へのアドバンテージはあってもその作品自体を保存するか否かは原作者ではなく利用する側にあると思うのです。

(また飛躍か ><;)