福岡伸一『生物と無生物のあいだ』講談社現代新書/新書感想

ちょっと名前負けしているのではないかと思った。

この著作の中心には著者が行った実験があって、その実験は、著者を含む研究グループが推測していた通りの結果にはならなかった。

その結果を受けて著者はどういうことを考えたのか。

その思考の軌跡は、遺伝子工学の歴史と著者自身の記憶とを行ったりきたりしながら、実験失敗の原因となったと著者が考える“生物のより精確な定義”の周囲をさまよう。

その行ったり来たりがかなり回りくどい。

だから―例えば僕は土木工学を専攻しているので学部時代に上下水道工学に関連してウィルスや細菌について一定の知識があったからかもしれないけれど―もっとすっきりと語ることもできるのではないのか?と思ってしまう。

S・シン『フェルマーの最終定理』が効果的に数学史を辿っていたことを思い返して、物足りないと感じました。

そして、「動的平衡」を生物の定義として提案するのだけれど、この文脈で「動的平衡」を持ち出すことは果たして用語として正しいのかと言う疑問がある。

動的平衡とは、「動的でありながら平衡状態にある」ことを指し、化学平衡の状態が代表的だと思う。僕は高校の科学で「化学平衡動的平衡である」と説明されたと記憶している(もう脳が曖昧だけどorz)。その意味で、シェーンハイマーが発見したものは「生物は緩やかな動的平衡の状態にある」と表現してもよいかもしれない。

しかし、筆者の実験から得られた知見は「ある遺伝子をノックアウトしたが、それに代替する機構が働いて個体全体としての機能は平常に保たれた」ということなのだから、この「動的平衡」の話とは少し距離があり、別個の知見として扱うべきだったのではないかと思う。それはむしろ生物のフェイル・セーフ機構と見たり、そういう代替機構を獲得する過程を推測することに楽しみがあるのではないかと思った。

理系の研究生活を描いている点が新鮮味があるし、生物の定義を提案するなんていう荷厄介なもの抜きにして「遺伝子工学の歴史を追いつつ生物とは何かを考えてみよう」くらいの気持ちで遺伝子工学と理系の研究生活に力点を置いて描くともっと良書になったのではないかと思った。

が、元々雑誌連載だったものをまとめたもののようだから、そううまくはいかないか。

いや、このままでも十二分に良書なのだけど、理系が読むには物足りない部分もあるのでは?と思ったと言うことです。

……ダメだ。ここまで書いておきながらちゃんと理解できたかどうか自信がない。

おかしいな。期待して読んだんだけどな。僕が馬鹿なのかな。

ところで、セレンディピティを直感と同義に扱っているのには抵抗があった。

僕はスポーツで良く言われる“ゾーン”の状態とセレンディピティは良く似ているのではないかと思っている。

ゾーンは集中力が高まり、プレーが選手の能力の最大限にまで発揮される状態であり、僕も一度だけ“入れた”ことがある。バスケットボールをやっている時だったのだが、プレーの選択がいつになく早く正確にでき、シュートも落とす気がしない。しかし、あまりにバスケットボールが簡単に感じるので自分自身に疑問を覚えるのだ。「こうシュートすれば入る。でも、こんな簡単でいいのか?」

それは確信には違いない。しかし、考え無しな確信ではなく、練習によって体得した体の動きとプレー選択の思考が最適化され、短縮された最短の瞬間的思考の成果たる確信なのであろう。

セレンディピティの事例をいくつか伝記や科学史の書物で見たが、それはゾーンにとてもよく似ている。発見した瞬間は電撃的であり、それを確かめる過程は慎重、というよりもむしろ半信半疑で行われることが多い。そして、その結果は完璧なまでに美しい。

それは直感にして直感ではないだろう。

スポーツ選手はたゆまぬ反復練習によって、またメンタルトレーニングによって試合においてゾーンに入れるように訓練する。しかしそれでも一部の選手しか到達できないし、試合時間中ずっとゾーンに居ることはできない。

科学者がそんな状態になれるとしたら、それこそ恐るべき才能と集中力が必要だろう。

だから、一般の科学者がセレンディピティに囚われるべきではないと言うのは正しい。しかし、それが存在しないというのとは違うと思う。

ロマン的見方をすると。