恋愛観についてだらだら書く(中)/小人雑感

(上・下)と同様、自由に書きたいから<続きを読む>以下に格納しておく。

過去の分は以下の二つ。

過激…だなぁ(汗

恋愛観についてだらだら書く(上)/小人雑感(2007.12.28)

恋愛観についてだらだら書く(下)/小人雑感(2007.12.30)

エロいつもりはないけど、エロく見えるかもしれません。

他人が同じことを感じていると思えることはとても心地よいものだ。

子供の頃は、家族と同じ物を見て聴いて食べて触って、多くの経験を共有することができているから、また、他の同い年の友達もそれほど多くの経験を持っているわけではないから、ほとんどの時間で同じように考え、同じように笑ったり泣いたりすることができる。

しかし、年をとるにつれ、経験しているものごとの違いが多くなり、結果として同じものに対して同じような感じ方をすることが難しくなっていく。

同じ感じ方ができないから、自分を解ってくれないと思うようになる。

それが寂しさに繋がる。

性徴の時期のずれは特にそれを顕著にする。

性徴が早い者ほど、それをきっかけとして男女の性別を強く意識するようになるし、それが他者との感じ方を分けることになる。

寂しくなくなるためには、同じ感じ方をする誰かを見つければいい。

そして、同じ体験をすることで感性を共有する。そうすると寂しく無いことを見つける。

若い世代にとって「時間の共有」こそが恋愛の重要な要素であるのはそのような理由だと思う。

そして、肌を触れ合わせることがその最も優れた方法だということに、簡単に気が付く。手を握ったとき、掌という柔らかくて大事な部分を安全に触れ合わせるという行為によって生まれる感情は、とてもやさしく温かい。そしてその感情を共有しているということが直感的に解りやすい。そして手だけでなく、腕で、頬で、唇で、感覚を共有しようとするようになる。

その延長線上にセックスが意識されるのは必然だろう。性感によって、肉体的刺激から一意的に感情を引き出すことができる。そう思うからこそ、寂しさを埋めるために体は重ねられる。

だが恐らく、手や腕や胸や頬や唇ほどに、性器は男女で同じではない。だから、その性器(生殖器と言い換えてもいい)から得られる性感の違いに、感情のすれ違いが生じて寂しさが生まれることもあるだろうと思う。

感情の共有のために人は寄り添おうとする。

恐らく、一般に思われているほどにセックスはその役には立たないだろう。セックスから感じるものが男女で異なってしまうのだから。だけど、セックスに至る前段階で既に得られている「相手の前で裸で居られる」という想いとセックスの結果として得られる子供に対する親としての情は、共有できるものであるだろう。だから、その意味でセックスは感情の共有に役に立つことはあるかもしれない。

恋愛における容姿とはどう位置づけられるのだろうか?

容姿が美しい、あるいは行動も含めて「かっこいい」または「かわいい」と思うことは心が浮き立って心地よい。けれど、それは観察している側だけの感情であって、観察されている側はそれを共有する事ができない。だから、美男美女からカップルが成立すると言うのは、互いが互いを観賞し、それによって得られる心地よさを共有していると思えているからだと思う。しかし、容姿というのは人間の要素のほんの一部でしかなく、そんな一方的な関係と言うのは長続きしにくいだろうと思う。

恋愛とは何か。

恋とは「請う」ことだと思う。

相手に自分と同じ想いを求めること。

そして、愛とは「合う」ことだと思う。

相手に自分の思いを合わせること。

感情を共有して、寂しさを生めるために、自分の感情と相手の感情とを交感して、そしてできうれば同じ目的を共有すること、それが恋愛なのだと思う。

それは例えば幸せな家庭を築く事であったり、夫婦で事業的成功を収める事だろう。

一人では処理し得ない、生物的に避けがたい性的欲求と言う課題を片付けつつ、同じ何らかの目標を、感情を共有できる存在、それがパートナーなのだろうと思う。それは必ずしも男女の性別に限らないことだ。

性的欲求の処理を共有できない場合は、それは単なる友情なのだろうと思う。ただ、世の中にはその感情の共有と性欲の処理とをうまく弁別できない人が多くて、男女の友情は成り立たないということになっている。考え方は男女の区別無く多様で、男女の違いなんて性器しかないのだから、ただその違いだけを無視してしまえばただの個性の塊しか存在しないのに。

結婚なんてただの制度だ。

夫婦で役割を分担した方が子育てなどの上で効率が良く、それが国益に叶うからこそ国が制度として整備している。現在、結婚しない男女が増えていると言う。それは、「女性は家に居るもの」という観念が支配していた時代に合わせて作られた部分がまだまだ残っているせいであり、夫婦の役割分担の形に合わせて本来改正されるべきものだ。

結婚の本質とは約束である。

約束とは恋愛の本質にそぐわないものだ。何故なら、恋愛とは同じ考え、同じ感じ方をするために多くの時間を共有し、お互いに言葉を交感しましょうというのが恋愛なのに、それを改めて約束すると言うことはそこに困難を感じ取っているに過ぎない。

…まあ、ほとんどの人間にとってそれは困難なのだから、戒めとしての指輪が必要なのだけれど。

一方が働きに出て、もう一方が子供の面倒を見る。そうするとお互いの物の見え方にずれが生じてしまう。どういうことを考えているのか落ち着いて話し合う時間も少なくなっていく。そんな状態では、恋愛関係は維持できない。だから、結婚という契約関係に依存することになる。

理想的には、そんな契約関係など無くても、愛情だけで家族が維持できればいいのだけど。今はそうじゃないから。

けれど、例えば結婚式という儀式によって、強い思い出を共有している事は、それを支えとして恋愛関係(愛情関係と言い換えてもいい)を維持するために役立つだろう。

結婚とは、そういうものだ。

ずっとその人と、いろいろな苦難を乗り越えて、それでも心を一つにして生きて行くことができますか?

僕はまだ、恋愛をしたことがない。

だから、これからそれに挑戦することになるのだろう。

僕から見ると上の宣誓を求める文句はこう変わる。

僕はいろいろな苦難を乗り越えて、心を一つにしたいような、そんな人に恋をするだろう。

それが僕の今の恋愛観。

上と下に書いた両極端な考え方を中和させて、間に生まれた穏やかな結論。

本能と理性が衝突して生まれた妥協点。

つまり、この恋愛観が僕の中心にあるということ。

物事を語ろうとする時に、どうしても極端な語り方をして相手をびっくりさせようとしてしまうのは僕の悪い癖だ。

(……あかん。目がしぱしぱしてちゃんと書けているか自信がない。ま、いっか。素直な感性が表れていると信じてアップします)。

以上です。