笑顔と美醜/思索

心の奥さえ透けて見えそうな、飾りの無い笑顔というものは、その人をとても美しく見せてくれる。

心からの笑顔というのは美醜を超えて価値のあるものだと思う。

笑顔が良い女性に対して、僕は「可愛い」という言葉を使う。

ちなみに、男なら「イイ奴」だ。

笑顔が良い人と一緒に居るのはそれだけで楽しいし、楽しませる甲斐があるというもの。

どんなに美しい人でも、笑顔がどこか控えめな人には、僕は「キレイな人」とという言葉を使う。でもそれは、表面的な、物理的な評価でしかなくて、「愛す可し」という必然ではなくて、評価可能という認識でしか無い。どんなに綺麗な顔をしても、いざという時心から笑えなければ人としての価値はそれほど高くは無い。

昔、「ビューティーコロシアム」という番組があって、中学生とか高校生だった僕はその番組が嫌いだった。

理由は「そこまでしなくたって、笑顔だけで十分なのに」と思っていたから、お金をかけて変えても仕方ないと思っていたからだ。

今は、それは半分同意でき、半分反対だと思うようになった。

それはケースバイケースで評価する。

もし、整形をして、顔に自信を持つ事で、心から笑えるようになれば、良し。心から笑うきっかけとしての美容整形としてなら許容できる。

もし、整形をしても、心から笑えるのでなければ、それは無用だと思う。

「新生児微笑」という言葉がある。

生まれたばかりの新生児が、親などの保護者に対して無条件で微笑む事を指し、唯一、遺伝子による本能的な笑顔である。

それは、愛してもらうために、可愛く振舞う生存の術であるが、本能はやがて、理性の成長とともに薄れていく。

逆に人は成長する中で、意識的なコミュニケーションツールとしての表情を学んでいく。笑顔も、そのうちの一つだ。

学ぶ事は真似る事。周りに良い笑顔をする人が居なければ、その人は良い笑顔を学ばずに育ってしまう。

笑顔には、その人の人格が滲み出る。だから、僕は笑顔を好意の基準に据えている。

だが、これは表向きの解説。

時々思い返す事。

小中学校時代、不細工といじめられていた女の子の事。

あの人は笑顔を作るのも下手だった。

分別の無い小中学生ならば、それをいたずらに取り上げていじめる事は良くある事。

そして、僕も理由は違えど同じカテゴリに入る事が多かった。

そして同じ扱いをされる事を僕は嫌った。

明確に、醜い事を悪だと扱っていた。

だから、僕の美醜にこだわる人間への反撥心は、単純に過去のいじめへの反撥心の延長でしか無い。

過去の他人と過去の自分への嫌悪感。

その裏返しとしての「美醜の価値観」。とんだ偽善。

突き詰めれば、同じ笑える人ならより綺麗な人の方が良い。

それが自分で解っている。

だからこの記事の前半は嘘なのだけれど、その嘘を口にしていなければ、僕は、笑顔を奪った僕を許せない。

僕にとって、美醜と笑顔の関係は複雑に絡まりあって、解ける事が無い。

美醜よりも笑顔を上位に置きたいのに、本心はそれを否定する。

どうしようもない対立。

でも、それで良いのだと思っている。

僕はこの程度の軋轢を抱えても、ちゃんと笑えるように出来ているから、十分だ。

結局。

笑顔には最高の価値がある。

誰もに心から笑っていて欲しい。

そうとしか、僕には言えない。

この記事に、独白以上の価値など無かったな。

呆れた。