都市計画とかに関する断片/侏儒雑感

だるい。

めっちゃだるい。

以下、アイディアの断片みたい。

日本の都市計画ってのは、線を引いて色を塗り分けただけだ。そこには戦略も何も無い。

戦略は無いが、とりあえず小手先の戦術を駆使して何とかここまで来た。

確かに、行政が権限を握らないことによって、土地利用に関するダイナミズムが生じていたかもしれない。がっちり都市と農村の線引きをやっていたら、ここまでの工業化や人口増はありえなかったかもしれない。

しかし、時代は変わったのだと思う。

環境(そこには景観も含まれる)が重視される時代になり、環境が有するさまざまな機能が注目されるようになった。

水源涵養や原風景としての山林は早くから注目された。

そして、これからは農業だ。日本の食料自給率は低すぎる。それは、石油価格の高騰とバイオエタノールによる食料と燃料の価格連動によって、カロリーとエネルギーの自給率にも絡むし、食糧生産のための水という意味で水の自給率にも影響する。

だが、日本の都市計画と農村計画は農地を守っていくのに十分ではない。

よって、景観が環境を守るというような逆転が起きている。

景観とは、自然と人間との関わりの中で形成されるものであって、景観のために自然が保護されるというのは逆であると感じる。自然が保護された結果、景観が保たれたのならばよいと感じる。

それは、意図した保護と意図せざる形成との間に生じる効率の差の問題もある。

意図的に保護するのはお金が掛かる。だから、観光などによって投資を回収する必要が生まれる。しかし、観光が流行り廃りの激しい水商売であるからこそ、その運用には細心の注意と継続性が必要だ。

地域ブランドが確立できた時点が終着点で、あとは安定軌道に乗るものだと勘違いしている向きは多い。しかし、ブランドが確立した時点ではようやくほかの地域ブランドに並んだだけである。それは出発点に過ぎないのだ。

このように観光地化するのも茨の道であるのだが、観光地化するだけの地域資源に恵まれない地域は途方にくれるばかりである。

人が住みよく暮らすには地域の一体性が必要である。モータリゼーションの前は、バス停や駅を中心とする商店街が地域の中心であった。また、商店街が無い地域でも2、3の商店が集まった辻が地域の中心と成っていた。それを昔はスーパー、今は郊外大型商業施設が破壊した。それらは、地域から利益を吸い上げるという点が指弾されがちだが、本当の問題は域外に資本の中心があるために、不採算になったとたんに域外へと撤退してしまう点にある。食料品や生活必需品を手に入れるための商業集積は地域の中心としての機能を持つ。そこにひとが集まり、場が共有される。それが人と人との繋がりを生むのである。

ちなみに農村は個々の家が独自の食糧自給を行うので食料と生活必需に関しては独立しているが、祭事に関して寺社を共有していた。

このような場は、防犯や消防、孤独死や非行を防止する福祉機能などを持っている。場が人を繋ぎ、人の繋がりが個々の人の弱さを補い、余裕をもたらす。

場が失われた地域は混迷する。

地域行政に対する意見形成も困難になる。地方行政は混乱していないだろうか?場当たり的になっていないか?地と血に偏っていないか?

都市計画というのは本来的に政治に最も近い。

産業は土地の上に成り立つからである。資源は土地の中に眠るからである。人は土地の上に暮らすからである。

日本の都市計画はずっと土地の上に線を引いて色を塗り、あとは民間に任せきりにしてきた。

しかし、それは敗戦によって再びゼロに―赤ん坊に戻った日本が、いわばこれまで青年期にあったからであり、公害や金融危機を経てこれから壮年期に至るに当たって、沈着冷静でしかし積極的な都市経営が必要となっているのではないだろうか?

ただ、別の角度から見れば、残業や善意によって(一応の)好景気が成り立っている現状は、青年期への逆戻りとも取れるし―中年の過労死前の最後の輝きとも取れる。

ま、そんなことはどうでもいいか。

頭あ重くてまともに論文に気力を傾けられないわ。

っていうか、この文章は論文に関係あるっちゃあ、あるんだけど。

ああ、ダメだなぁ。こんな程度にしかこのことを書けないなんて。未熟。ごみくず。社会の盲腸。いっつみー。OTL