光の指す方へ

光の射すほうへ[Mr. Childrenの曲のタイトルの一(Album“Discovery”収録)]

夢の中に、死ぬことがある。

それは夢だと判っていることが多い。

ある時、私は完全に死んでしまっていた。

勿論、夢の中で、だが。

完全な闇の中では全ての感覚が曖昧で、自分の実在がひどく不確かだった。

それは初めて味わう感覚だったので、死をもたらした衝撃によって放り込まれたその何も無い場所を私は当初はとても愉しんだ。

夢なのは既に判っていたし、貴重な体験だと思っていた。

右手は在る様な気がするのだが、視力が無いので見えず、頬に触れようともその感触は「そうあるべき」という自意識が生み出したものかも知れず、錯覚を否定するものが何も無い曖昧模糊。

それはそうざらに味わえるものじゃない。

温度も感じられず、触覚も、味覚も、嗅覚も、聴覚も、視覚も無く、重力も感じられないその世界で、

唯一感得できるものがあった。

それは時間の感覚。

私という自我が思考という作業を成し、その成果が蓄積され、この状態についての考察が進んでいる事、それ自体が時間の経過を示していたのだった。

そこでは、思考が時間を生み出していた。

そしてそこからは恐怖も生まれた。

長い間この空間に居る事が、現実の死に繋がっているのではないか、と。

一般に流布されている「臨死状態」に自分は在るのではないか、と。

私はあらゆる方向に意識を向けて出口を捜し求めた。

光の出口を通って人は臨死体験から脱出すると聞き知っていたからだった。

果たして、それは在った。

漆黒の彼方に粒の様に小さな光が灯っていた。

私は意識を集中させた。その光の方向へ。

私が念じると共に推力を得てその光へと進んだのか、はたまたその生存への意志力で以ってその光を引き寄せたのか、必死の状況では解らなかったが、私は確かに光がどんどん大きくなるのを視力で感じて、そして光に包まれて、目覚めた。

涙が流れていた。

あの時は光が射すほうへ必死に進んでいた。

暗闇から、光が在る、光の下へと、進んでいた。

今は。

光は感じる。

しかしそれは背後に在る。

光は背後から進む先、漆黒の闇へと投射されているのだ。

遠くに行くほど光は弱まって、そこに何があるかは微かにしか見えない。

でも、現実にはそちらが進む先なのだ。

光が指すほうへ、進む。

朧で不確かで幽かな、むしろ暗闇に満たされた空間へ進んでいる。

そちらが夢へ向かう方向だと光が指し示している。

夜見る夢は光の射す方へ闇の外へ、昼見る夢は光の指す方へ闇の中へ。

夢の中に死ぬ事がある。

今夜は、そういう話。