言葉の外/daily

ときどき、「おー、すげー。あの人、他人と話をしてるよ」と思う。

本当に、日本人と外国人が話をしているのと同じに、日本人と日本人がコミュニケーションをしている姿に感心する。

それは精神的に、すごく赤く腫らした顔を守っているような、ボディがガラ空きの時だから、ってのもあるけど、やっぱり僕は根本的には「他人とコミュニケーションをとれた」という実感が薄い人間なのだからそう感じるのだと思う。

今日、「アンケートの結果で、小学生以下の子どもに対する際には『経験』を小学生以上の子どもに対する際には『コミュニケーション能力』を求める、と出ました」って僕が面白がったら、「当たり前でしょ?」って言われたんですよ。……うん、考えたら当たり前だけど、当たり前だと直感出来なかったんだ。小学生とコミュニケーションが成り立つとか生まれてこのかた思ったことなかったよ。つまり、自身、小学生の頃もたいがいわけわかんなかった。

他人と話すときは、自分が書籍になったつもりで話すことで一番安定すると感じる。あるいは、何かのキャラクタを介するとか。「こいつはこういう奴だから、こういう言い方をする」っていう説明口調が多かったな。うざす。

書籍になりきるので、インプットが薄くなるのが欠点だが。

聴くときはレコーダーのように聴く。アウトプットはできない。

なにかと機能を切り替えないとダメだ。双方向性が低い。

聴いて、ストレージして、リロードして、アセンブルかけて、独自のアルゴリズムで回答をアウトプットする。

まあ、そこの間にひとつひとつトリガが必要なんだ。

まあ、そういう風にうだうだ書いて、何が言いたいかというと、やっぱ会話で身を立てるのは難しいなー、と。

特殊な、ラグの大きな、双方向性の低い擬似同期的なコミュニケーションを環境としないといかんね。