志賀直哉『暗夜行路』新潮文庫/読書感想
(2010.01.16追記)
今読み返してみて、やはり切れ味が鈍いと思いました。電車の中で読み終わった直後はもう少し鮮明な印象があったのだけれど、たらふくくって風呂にまで入ってしまった後ではそれがかなりひどくなまくらになってしまっている。
しかし、今書き直してみたところで駄目を詰めることはできないだろうとも思う。
この感想が不本意な出来であり、魅力を十分に表現できていないことを冒頭で断らせていただき、もって小心の慰めとさせていただきます。なんだかなー。
(追記終了)
読み終わりました。
長かった。
最初に設定した状況から、志賀直哉ならどう行動するかを突き詰めて書いた私小説的物語。
最初の出発点の設定は、志賀直哉自身に近いながらもやはり違えてあって、これを志賀直哉の私小説と見るのは無理がある。
暗夜行路の表題に良く現れた通り、主人公の作家・時任謙作は心の置き場所を求めて先の見えない生活を送る。
恋愛小説、と言われると少し戸惑う。
そういう面もある、としか言いようがない。
しかし、恋愛が中心になっているわけではなくて、謙作が抱える問題がより明確に表出するのが恋愛だから、恋愛問題がしばしば場面場面の課題として目に付く。
だが、謙作の課題はもっと倫理的な覚悟の問題なのだと思う。
以下、終盤の内容に触れます。
さて、最後、大山での御来光を目にしてある種の悟りに達した謙作のその後の生死の問題です。
作者はあとがきに生死はどちらでも良いと書いています。
確かに、どちらでも物語は直子の付いていこうという精神の前に終了を迎えています。
しかし、もしかしたらここに作者のちょっとした欺瞞、自分でも気付いていない欺瞞がある可能性はないでしょうか?
この作品を読んでいるとよく分かりますが、作者は癇癪持ちです。それは謙作の性格にもよく現れています。
さて、作中の謙作はまだまだ作家として大成したわけではありません。作者の経歴で言えば、尾道を経て京都での結婚生活を得た後ですが、癇の気がまだまだあった頃に相当します。30前後でしょう。
急に悟ったと言って、即継続的に実行に移せますかね?
死に臨んで思わぬ生を得て生まれ変わる人はいます。
しかし、志賀直哉はどうでしょう?
この後、生き残ったとして、謙作の立場だとして、癇癪を起こさずにいられるほど丸かったでしょうか?
なんかそれは、疑わしくないですかね。
なんだかそういう不安定さをこの先に隠していそうな気がするんです。
それはつまり、未来のことなんて分からない、ということです。
そこで、一番物語が安定したところで終わった、そういう邪推もありでしょう?
高い倫理観があるからこそ、気まぐれな自分自身が許せず、自分に対して癇癪を起こしてしまう。
そういう性質を実に細やかに描いていて、すごい作品です。
とりわけ風景描写と心理の動きに徹底した追求があるのがすばらしいなぁ。