恋だの愛だの/daily
恋愛というものを考えた時、相手に幸せであって欲しいという気持ちと自分が幸せになりたいという気持ちがあることに気付く。
恋とは、その場にいないものを想う気持ちが意味に含まれ、その意味で「自分が幸せになるにはあなたがこの場に足りないのです」ということになるだろう。つまり、相手が自分の側にいないと幸福にはなれないのである。
愛には、相手の幸せを願う気持ちが意味に含まれている。それは自分が側にいるかいないかではなく、純粋に相手の状態だけで、こちらの満足が得られてしまう。自分が幸せであるか否かは問題にならない。
二人が一緒にいる事で、恋でもって自分が満足し、愛でもって相手を満足させるのが恋愛なのだろう。
恋だけで、つまり自分が幸せになりたいだけで相手の幸せを考えないのは恋愛ではなく、
愛だけで、つまり相手の幸せを考えるばかりで自分を犠牲にしつづけるのも恋愛ではない。
僕が見ていて多いのは前者の方で、多分、そういう恋を積み重ねて愛を学び、恋愛に至るのだろうと思う。
僕自身はというと、昔っから自分の幸せはあまり考えてなかったので、恋が欠けていたから恋愛を経験してこなかったのだろうと思う。
昨年末に夢を語り始めたのと同時に恋に気付いたというのは、つまりそういう自分が幸せになるという気持ちが恋愛の上で必要だという証拠ではないのかな、と思ったり、それでいて相手を幸せに出来そうに無い現状を思って決定的な一歩に踏み出しきれないのは、やはりまだまだ恋する気持ちが弱いのかなぁ、と思ったりしています。
相手を必要とすることに遠慮があります。自分が幸福になることに遠慮があります。
幸福になりたくないわけではなく、周りの幸せで自分の幸せを代替出来てしまうというか…
しかし、僕を愛してくれている家族や友人・知人とかのことを考えると、僕が幸せにならないことには彼らも幸せにならないのだから、僕も幸せにならねばならないのだなぁ、と今更ながらに思ったりします。ただ、幸せとは何なのかについて共通認識を持てているかというと必ずしもそうでない点があって、その点で衝突が生じる場合もあったりして大変困惑してしまうこともあります。
恋のような自己主張と、愛のような自己犠牲の両方を共有するのが、どんな人間関係においても重要なのだろうなぁと思いつつ、なかなか実践できなかったりします。
そういう物思いの晩秋です。
(ここにおいて、恋と愛を意味の上で対立させたのは、表現上のわかりやすさのためであって日本語における意味解釈を新たに提案しているわけではない。日本語の愛は、ほとんど世界中の「愛」に類する語の意味が流れ込んでいて、意味が混沌としているのが実状で、上記の解釈はそのほんの一部を取り上げたにすぎない。)