計画と衝動/時事

秋田の児童殺害の容疑者について、犯行が計画的であったのか衝動的であったのかについて、注目を集めているようだ。

だが、この報道と世間の興味の方向に僕は疑問を感じる。

しかし、僕が思うに、これは衝動的であり計画的であった、というのが正解であるように思う。

どうにも最近の日本人は「一貫して黒」か「一貫して白」かで、物事を捉えたがるような気がする。

例えば、「ズバリ言って」貰いたがったり、「実は真っ黒け」なんて語法を好んだり。

万事は刻々と流転し、人の心理もそれに応じて白にも黒にもなる。

しかし、オセロゲームのように間の白が黒になるなんて事があるわけではないのだから、時間軸に沿ってまで白黒どちらかの一貫性を要求するなんて事は無理があるだろう。

冒頭の事件の話に戻ろうか。

まだ容疑者の娘の死因が事故か事件かについてはっきりしていないので、比較的信頼性の高い部分から推測を立てることにする。

まず、容疑者は自分の娘の死が事件として扱われる事を望んでいた。これは計画的とも、衝動的または感情的とも捉えられる。

いずれにせよ、容疑者は別の被害者が出れば、自分の娘の死も事件として扱われるようになるかもしれないと考えた。これは衝動的な発想である。衝動とはつまり自己の精神の平衡を保つための直感である。短絡的で、それ自体は不完全だ。この直感に理論を加える事で人は生きている。容疑者も、そうしただけだ。

つまり容疑者は次に、ある程度の犯行の準備を整えた。この時点で衝動的発想に計画性が加わる。しかし、それは実行の意思の有無とは無関係である場合もありうる。「準備していれば実行に移せるかもしれない」という思考の下でも、人はしっかり準備をできるものである。ただ、準備をすることによって衝動はしっかりとアイディアとして自己に定着してしまい、頭から離れがたくなっていくだろう。

車に乗っていて、死体を隠すにはどこがいいか、などとふと考えてしまう事すらあるだろう。衝動というのはそういうものだ。衝動を定着させるために人は思考する。それが計画となっていく。

最後に、機会が訪れる。

犯罪というのは、犯人に実行の機会が訪れなければ犯意があったとしても実現しない。

周到に犯行の機会を作り出さない限りは、その機会は常に一瞬で、逡巡している暇は無い。

よって、犯行を実行に移す瞬間は、衝動的であり得る。

今回の事件では、被害者が単独で行動している状況が犯行には必要だった。容疑者は地元民であり、目撃された場合に後姿からでも人物を特定される恐れがあるから、限りなく人通りが少ない時間に出会う必要があった。

そして、それが訪れたのだ。

「誰でも良かった」というのは結果論的な自供であろう。補足するならば「誰でも犯行を可能とする状況で現れたら、犯行に及んだであろう」ということである。

それから以降の行動は準備段階と同じ、衝動を論理で補強する作業が、計画犯罪の印象を与えている。そして、衝動が発端となっているために、計画の完全性を欠いている。

死体を隠そうと思ったが、完全に隠し得なかった事(これは最初の衝動が関わっているために、計画的思考=容疑の回避と矛盾してしまっている)、その後のアリバイ工作が杜撰であった事(これは一貫した緻密な計画が無かった証左であり、衝動的犯罪はこのような片手落ちを多く有する)から理解できるだろう。

つまり、衝動を正当化するという人の日常的反応が、今回の事件を衝動的か計画的かわかりづらくしているが、今回の事件は他の9割方の犯罪と同様、衝動的犯行と見るべき要素が多いと結論できる。

そもそも、最初から最後まで計画的犯行なんて一部の強盗や窃盗くらいなもんである。(つまり、壁に穴あけたり国外逃亡したり)

…しかし、この記事自体が衝動的であるために、一貫性を欠いているきらいがあるなぁ…。

腹が立つくらい未熟…。

こういうのをスパッと書ける人間になりたいです。

まだ練習中…。