体で記憶する/思索

きっとどこかで既に言われている事。

昔、神話や昔話がある程度の音韻を持った詩文の形式で成り立っているのは、それ自身が捧げられたものであった事と同時に、それを記憶する上で、リズム―音楽性を記憶を引き出す手助けとしていたからに違いない。

つまり、リズムと言葉を連動させることによって、記憶を補強するのである。

現代でも、声に出して憶えるとか言う、あの感覚である。

九九なども良い例だろう。

さて、同じ事が舞踊にも言える。

つまり、記録媒体としての文字が生まれる以前は、身体の動きや音韻が文字の代わりを成していたのである。

さて、翻って現代。

紙から活版印刷、コンピュータと記録媒体は進化を遂げ、最早人間の記憶力に迫る勢いである。いや、長期の保存性では上を行っている。

此処から更に進歩が進めば、人は記憶を外に、外部記憶装置に頼る方が効率的となるかもしれない。

だが、僕は思う。そんなのつまんないな、と。

効率社会の究極は、機械の様にムラの少ない、ミスの発生頻度がある程度予測可能な世界、否、ミスの無い世界。

そうなると人という、性能に差の大きな機構を捨て、機会の体になってしまうのが一番だ。

だが、ミスやロスこそが人間性を豊かにしていると僕は思うし、そういう修正の余地が多いからこそ努力に価値があるのだと思う。

つまり、機械化のアンチテーゼとしての人間化を考えるに際して、前半に述べたような、詩歌や舞踊の類というのはこれから非常に注目されてしかるべきと思う。

以上、寝る前10分のブログタイムでした。オヤスミ。