凶悪事件と現代社会/時事

大阪の姉妹殺害事件の公判が始まりました。

「母親を殺した時の興奮が忘れられず」というのが犯行の動機のひとつとなっているようで、非常に興味深い事件でした。

まず一つ気になったのは、遺族の記者会見。

父親は「(死刑にならなかったら、息子と)2人で殺します」と仰っていました。

昔はどんなに怒り狂っても、公衆の面前では「絶対に許せない」という婉曲的な表現に終始したものです。

「殺す」など、簡単に口にしてはいけないものだと、皆が思っていました。

最近は小学生でも簡単に「殺す、殺す」言ってますから、簡単に「人を殺す」と言える時代になったものですね。

言葉は大事です。

言葉は凡そ行動に先立つ。

「殺す」と簡単に言う人の何%が実行に移すでしょうか?

確かに多くは無いでしょう。

しかし、「『殺す』と気軽に言えない人」よりも「『殺す』と簡単に言える人」の方が何倍、何十倍も簡単に人を殺すでしょう。

それを思って「殺す」と口にしているでしょうか?

言葉には責任を持って欲しいものです。

さて、事件の話に戻ります。

弁護側は心身耗弱を盾にするつもりだそうです。ま、当然の策ですね。

日本の法律を守るために、日本の法律を最大限に活用する。結構なことです。

しかし、僕は心身耗弱や心神喪失を理由に無罪判決が下るのには納得できないです。

何故なら、今の日本の現状は、法が彼らを許して社会に戻そうとしても、社会が彼らを許さず、彼らを結局“無法”へと追いやるからです。

そして同じ過ちを繰り返す。

今回の事件などその好例です。

彼は未成年での母親殺害の後、カウンセリングを受けていますが、完全に治癒していませんでした。そして、社会からの疎外感から精神を追い詰められたものと思われます。

治療とは、社会がそれを受け入れるまで完了しません。例えば、ハンセン氏病が特効薬の発見後も日本では阻害され続け、苦しみを生み続けてしまったように。

精神病と呼ばれるものも、それを治癒する体勢が整わなければ、それを法的に救う意味がありませんよ。

法律的にのみ救うのではなく、医学的、社会的にも救うと言うのなら、無罪放免に賛成します。

しかし、日本の現状はそうではありません。

現状では、死刑が被告にとっても社会にとっても最善でしょう。

最後に、被告が「母親殺害の興奮を」とのたまっている事について。

彼の担当医はどんな治療をしたのか、凄く興味があります。

というか、僕は絶えず自分をサンプルにして、精神構造について考察を重ねているものですから、精神医療の最先端に興味があるんです。

僕の見立てでは、彼は母親殺害における心理的動揺を興奮と取り違えたものと見られ、治療においてはそれらを取り違えたと本人に納得させる必要があったと思います。

その感覚が生まれた事自体を否定する方法は何の意味も無いですからね。本人が感じたものは感じるままにさせるべきです。ポイントはその感覚の解釈を修正する事にあると思います。

歪んだ感情という物は、常人の理解を超えるが故に、知覚した本人の独自の解釈によって更に歪んでしまいがちです。

それを巧く社会に沿う方向へ摺り寄せる作業が重要だと思います。

最近の事件は、コミュニケーション不全の時代の中ゆえに、そういう独善的感覚から社会的感覚への摺り寄せ作業が巧く行っていない事に原因があると思います。