glassesむしろspectacles/道具

「見えない?今裸眼?」

よく言われます。

先日眼鏡を新調した時に測った最新の結果では、僕は裸眼視力が0.1しかないようです。

それでも普段は眼鏡をせずに裸眼で通しています。

「不便じゃない?」と訊かれますが、余り不便には感じません。

人の顔がよく見えないことぐらいですかね。他の看板とかは何となく判るので問題ありません。

人の顔が見えなくても、親しい友人なら体格と歩き方で大体誰かわかりますし。

あんまり眼鏡に頼りたくないんです。

なんて事を話すとこう帰って来ます。

「普段は眼鏡?コンタクトじゃないの?コンタクトにしないの?コンタクトの方が楽だよ」

そうですね。でもコンタクトはすぐに外せないじゃないですか。

抽象的な表現ですが、眼鏡やコンタクトをすると色々な事実が遠ざかってしまいそうな気がするんです。それはガラスやプラスチックのフィルタを一度通った間接的なものになるという恐れと、僕が目が悪いと言う事実―見えるのが本来でないという事実を忘れてしまう事の恐れです。

一体感の強いコンタクトレンズは特にその危惧を強く感じてしまうのです。

だから僕は眼鏡をする時はいつも二つの価値を秤にかけています。

一般的に正確に物を見る価値と、個人的に正確に物を見る価値との二つを秤にかけて、眼鏡をするかしないかを判断しています。

一日には、見えるものが大事な時間と見えないものが大事な時間があると思うのです。

その意味で、僕にとって眼鏡はglassではなく、まさしくspectaclesなのです。ただ見るのではなく、正確に光景を見るためのもの。

非論理的な理由ですが、だからコンタクトレンズよりも着脱しやすい眼鏡を好み、それさえも時には嫌って裸眼ですごしているのです。

余談。

ところで、世の中には、眼鏡が似合う人と似合わない人ってのは如実に存在すると思うのです。というか、コンタクトよりも眼鏡の方が可愛い人、かっこいい人ってのもいると思います。割合、目の周りにスペースがあったり、顔の起伏が小さい人は、コンタクトより眼鏡にしたほうがアクセントがついて良いのではないかと推測しています。

しかし似合う眼鏡って髪型にも影響されますから難しいですよね。

選ぶ時には度が入ってないからよく見えないし悩ましい。やっぱり誰かと行かないと似合うかどうか安心できない気がする・・・。