変わった日常
先輩は天然系って言うより不思議系ですよ。
[管理人を評した後輩の言葉]
昨日の話。
ガラスに何度もぶつかっているキチョウを見つけた。
この駅のホームへと下りる階段は、側面が目の高さからガラス張りになっている。
雨が振り込まないように、との設計だろう。濡れた階段は危険だから。
でもそう解るのは人間だけであって、それ以外の動物にはガラスは見えない壁として立ちはだかる。人間の都合は彼らの本能には想定されていないのだ。
時折ホームから階段に吹き込む風にあおられてトンボやセミが階段に迷い込む。
僕は彼らがガラス越しに見える外界へ帰ろうと何度もガラスへ突撃し、乾いた音を立てている様子や、力尽きて階段に横たわった姿をいつも見るだけだった。
そして今日もキチョウが見えない“人間の都合”に虚しく頭を打ち付けている。
チョウのひらひらした動きは、とても儚げで哀れで。
助けてあげたいなぁ、と思った。
トンボやセミだったら動きが速すぎてとても掴まえられない。でも、このスピードなら掴まえられるかもしれない。しかし、より繊細な翅を持つチョウを抓む事は避けるべきだ。
じゃあ、どうするのか?
指先にとまってくれれば何の問題も無いんだがな、と思いついた。
すぐに、そんなメルヘンな事が起きるものか、と理性的な思考が混ぜっ返す。普通なら有り得ない。
でも、皆が言うように僕が不思議系なのだとしたら、普通じゃ有り得ない事もあっていいじゃないか。
辺りを見回す。休日の昼下がり、田舎の駅に人は少ない。
それだけ確認して僕はチョウの方へとそっと手を伸ばした。おいで。こっちへ。
ひらひらと舞うチョウはゆっくりと動きを緩めて、とまった。
とまった、差し出した右手の人差し指に。
驚きと感動と共に、あっちゃあ、と思った。が、まあ、自分の感傷は措いといて、とにかく階段を下りる。チョウが驚いて逃げないようそっと、慎重に。
指先にとまったその黄色い小さな生き物は思ったよりもじっと大人しくしてくれた。
それも何となく僕は嬉しく思った。
階段を下りてホームに辿り着いた。夏の乾いた風が吹いている。
風に誘われてすぐに飛び立つかと思っていたが、なかなか指先から離れようとはしない。
ホームには中年の女性が一人きり。別にこちらを見るでもないが、少し気恥ずかしかった。
手を顔の近くまで持ち上げて、指先の薄くて黄色い生命にそっと息を吹きかけた。
薄い翅が息吹にあおられて震える。そして、キチョウは飛び立った。
ようやく人の手から離れた小さなそれは、はらはらと散る葉のように高度を下げて僕を心配させたが、レールの上近くではばたきを強め、またひらひらと舞い始めた。
もう、ひとまずは心配ないだろう。
安堵して僕はさっきまでチョウがとまっていた指を見つめる。
重さも感じないくらい軽かったのに、皮膚にはしっかりと感触が残っていた。
心の中で喜びと自嘲が混じって微苦笑する。
不思議系なら有り得る、と思った。
そして実際にそうなった。
あっちゃあ、これは決定的に不思議系、変な人の日常だ。
また一つ僕は「普通人」から遠ざかってしまったなぁ。
そう思ってもう一度指先を見た。
まだ感触は残っている。
心の中で舌を出し、複雑に絡まった考えをリセットする。
でも、まあ、こんな感動を味わえるのなら不思議系でも悪くない。
そう思ったら、自然と微笑んでいた。
今もキーボードを打つ右手の人差し指にはあの感動が残っていて、親指でそっとその部分を撫でると体全体に喜びが蘇る。
不思議を超えてキモイと言われ様が、気にしない。
キーボードを打つ指に喜びが満ちている。