少数派の脆さ/凹
それは僕ちゃんがいつ殺されてもおかしくない少数者として生きてきたからこそこそこそこそこそわかることで、おっかさんの子宮にいたころから自分は多数派だーいと思ってきたあいつは五億万回生まれ変わってもわからないだろう。
前回の引用も『半島を出よ』だったが、今回もそうだ。
今読んでいるのだが、なかなか読み進めないでいる。
他に貸す人の予定があるから、なるだけ早く読みたいと考えているのだが、にも拘らずなかなか捗らないのだ。
だから、引用も偏る。心に引っかかっていて、ふっと思い出してしまうから。
理由はわかっている。
読んでいると感情が乱れてしまうからだ。
例えば冒頭の一文。
それはもう、とても共感できてしまう。
心の奥底に眠らせている暗い部分が、いわゆるイシハラグループには共感できてしまうのだ。
イシハラグループの彼らに近いものが僕の中には住んでいる。
そして蠢く。その章句の一つ一つに。
いいな、いいな、楽しいな。解るな。こういう気持ち。
憎んで、殺して、壊してしまおう。
そして誰もいなくなる。
居なくなるんだ。
でも痛い。
僕の一番の基本になっているものはそれを、その感情を忌避する。
家庭環境で培われた“基礎”は優しく、繊細なそれであって、傷や血や、痛みを恐れ、暴力を嫌い、争いを否定する。
優しく、暖かいものが欲しい。冷たく悲しいものは要らない。
楽天的で感情的、それが僕の根っこであり、最も強い決定権を持つ価値観系統。
生きること、創ることが楽しいことを知っている。
だから、その影の破壊志向は抑えつけなくてはいけない。
本を閉じなくてはいけない。
こんな怖い本は手元に置いてはおけない。
まあ、確かに怖い本ではある。
もう一つの価値観は、その中間に立っている。
論理と倫理を好むそれは、基礎の感情も、影の激情も理解して、その上で影を抑えることに同意し、しかし一方でこの本が、可能性が低いとは言え有り得る事実をいくつも繋ぎ留めて構成されていることに着目して、そこから獲られる物を求めて読み進めることを欲している。
計画的で、感情は低調な思考パターン。
建設的な案として、一日一章位を読むことを思い立ったのも、最終的に感情論に疲れて論理が顔を出した時だった。
こうやって色々考えてしまうから、だから読むのが大変なのだ。
そして思い知る。
自分はきっと少数派なのだな、と。
人生は楽しいことを知っていて、感情豊かで自分に根拠なく自信を持っている半面、享楽的でエピキュリアンで非計画的という欠点を持つ感性主体な部分。
人生は楽しくもあり悲しくもあると割り切っていて、社会が効率良く運営され、その中で自分も最も自分の能力を活かせる分野で生きることを望んでいる論理好きな部分。
人生は辛いものだとしか考えておらず、自分になんらの価値も認めていない、死への憧れと虚無感に苛まれ続けている最も暗い部分。
この三つの部分で揺れながら生きているなんて、誰に言えるだろう?
少数派なのだから、理解されないだろうから。
さて、これ以上は書かないことにしよう。
あまりそれぞれをくっきり切り出そうとする度に、その境目がよりはっきりしてくる気がする。
だから、今日はここまで。
ああ、ところで冒頭の引用の「生きてきたからこそこそこそこそこそわかることで、」の部分だが、「生きてきたからこそこそこそそこそこわかることで、」の間違いではなかろうか。
そうでなければ語呂も悪いし、意味も浅いものとなってしまう。
きっと、誤植だろう。