ここ1年について/anual

なんかひどい1年を昨年は過ごした。

元気に生きているかどうかは知らない。

ひとまず通院してた時期よりはまだマシなんじゃねーの?

でも、通院してた時の病名思い出せないしね。

なんか曖昧。

いつ死んでもいいような状態ではあるけれど、

親も兄弟も悲しむから死ねないよね、って感じはある。

なんか諦めの境地ではある。

しかし、矜持が死んでしまったわけでもないらしく、時々思い出したように志すことがある。

が、長続きはせぬ。

年始の社内会議で、「自分の方向性に悩んでいる」とか発言。

祖父の他界。

モバマスにハマる。

二次創作書くも、最後の締め括りに自分で納得行かず煩悶の嵐。

ホントにありとあらゆるものがどうでもよくなる。

「読んだ人が死にたくなるような作品」を書きたくなる。

TARI TARI」を見て高校生時代を思い出す。

ひとまずペンタブを絵を描いて気を紛らわす。

二次創作界隈のゴタゴタでまた悩む。

などのことがいろいろありました。

よく解らない状態。

どこで間違ったのかも解らないから後悔もない。

ずっと全てが間違いだったという感覚しか無い。

というよりも、その間違いだったという肯定というか諦念でもって全てを曖昧にしてしまっている。

全てを後悔して自分を殺すには私はてきとー過ぎるんだ。

改めて書いておかなければならないけれど、私の精神は、

①精神は肉体に宿を借りている存在である。

②精神は肉体を両親からの預かり物として十全な状態での保全に努め、これに物理的損害を与えてはならない。

③精神が他者に危害を加えうる場合に、肉体は自らの死を以って精神を葬ること。

というルールの下に運用されていることになっている。

これは厨二病的な自分ルールであって、③が実際に適用される可能性は無いだろう。

一方で、②は実際に重要なルールであり、食事の半分くらいはこのルールに拠っているし、刃物の取り扱いや高所での作業においても状況によってはそれらから精神を遠ざける運用がなされている。

とにかく、最近のトレンドは取りも直さず「みんな死んだら楽になるのに」である。

なんかしょっちゅうこれが頭の中に浮かぶ気がする。

私の破滅主義的思考の中では、世界が滅んでみんな死んでしまって、そしたら私は「許されて」「死ぬことができる」という考え方が主流である。

これは、中学生時代からの「親が死んでしまったら、可哀想な僕は死んでしまえるだろう」という思考の拡張にすぎない。

どこまでも私は中学時代の亡霊の域を出ない。

テキストを介さない他者とのコミュニケーションにおける不能感も中学生時代以来のものだ。

いや、萌芽はもっと前に幼稚園時代からあったが、それが日常において精神的な負荷として認識されるようになったのが中学生時代から、ということなのだが、まぁ、とにかくその時の苦手意識も相俟ってコミュニケーションに不便を感じる。

具体的には、相手の話をリアルタイムで理解できない、という不都合である。

そしてそれで苦手意識があるためにメールなどのコミュニケーションにおいても過剰に慎重になってしまっているような気がする。

今はとにかくスピードを落として一つ一つの仕事を片付けることを重視している。

会社は辞めたいのだが、辞める能力がない。

社長は「そんなことでは社会で通用しない!」と僕に限らない社員に対して喝を入れる。

だが、それは「無能ゆえにこの会社以外には行けない」という暗示に外ならないのだと、内なる私は言う。

これによって無能は社内に留まり、「社会に通用する」人は社会へと出ていってしまう。

こうして無能な人が社内に増えていく。そういう仕組に今はなっているし、社長のような言はネット上のあちこちで見るから、そうやって無能な人は増えていっているのだろう。

なんだかよく解らない安心感が僕にはある。

私は、なんとかなるとは思うのだけれど、確実な保証はない。

現時点で毎月手取りで17万円もらえている。それは満足すべきことなのかもしれない。

他の人がどれだけ貰っているのかは解らないが。

私は、とにかくお金を使わないので、貯金は溜まっていっているからなんとも言えない。

苦しい生活はしていない。

しかし、先日届いた「ねんきん定期便」を見ると、僕は20年間で500万円しか貰えないということになっている。

これは、今までの実績からの数字であって、確定した数値ではないと私は告げる。

だが、直感的にそれを掴むにはこのハガキは直接的過ぎる。

これを見ると年金を収めたくなくなる気持ちが湧いてくる。

それは非合理的な感情だと思う。

僕は。昔からよくホームレスになる夢を見る。

ズタボロの服を着て、寝床を探して街をさまよう。

内ポケットには100万円が入った封筒があって、僕はそれを大事に大事に使いながらホームレス生活をしている。

そして、ある日ホームレス狩りに遭って、ボコボコに殴り蹴られて死ぬのである。

その懐の100万円は狩りに来た者たちは気付かず、私はその100万円を使い切らないまま死ぬ。

全く無意味な死である。

そんな死を迎えるのだという認識が僕の中にある。

そういう意識が、僕が変わるのを阻害しているという評価もある。自分の中で。

でも、それを捨て切れない。

私は一体どれなのだろう?と疑問に思う。

最も私らしい行動とはなんだろう?

最も始原的な私は、他人の話を理解することができないから、高慢である。知識をひけらかすのが好きで、憎らしいやつだ。だが、優しくもある。

その上に生まれたのは、徹底的に無視され、時々攻撃されることによって生まれた憎悪である。私の一部は、憎悪によって生存できた。いや、それは控えめな表現であって誤っている。

私は、「こいつらはいつか死ぬ。でも僕は生きる」そういう意思によって私は生きながらえることができた。

死なないことそのものが復讐であり、頭の中でそいつらを殺し続けることが復讐であった。

故に、私はその拡張として、生き続けつつ、憎悪を抱いたものを瞬間的に脳裏において殺害する習慣がついた。

私は、その時期が過ぎた後、その習慣を嫌悪した。

が、もうどうしようもなかった。

修正できないその内面を、そのまま抱えて私は私全体を「好きだ」と思い込むことにした。

その暗示によって、私は危うい均衡を維持していると言える。

その暗示そのものが「私」であって、最も私の中で新しい部分である。

憎悪は「俺」の担当であり、それ以外の優しさが「僕」である場合が多い。

だが、これらは安定しているわけではない。

多重人格とかそういうものではなく、「連想の近さ」の問題でしか無い。

例えば、「いちご」という語に対して、「赤い」「甘い」「おいしい」というような連想が成り立つように、

瞬間的に生まれた憎悪について、「俺」という主語を持ち出すように関連付けられているというだけのことである。

多分。

最近忘れっぽいのはストレスによる抑圧状態で脳が完全に働いていないからだと思う。

ここまで書いてもホントに自信がない。

私って何なのだろうか?

価値?

無いなー。

いや、あるなー。

この「あるなー」というのが自己保存のための反射的な応答であって、全くの無根拠である、という糾弾を私は行うことができる。

しかし、これを訴追の相手として選ぶには、私とこの保全機能との距離は近すぎる。

とにかくやりたくない。

何もやりたくない。

という意識が頭にポコポコ浮かんでくる。

もう嫌なのである。

何が?

義務感で持って何かを為すことが。

では、何をやりたいのか?

はははwwwwwwww小説でも書くのかwwwwバカなのにwwwwwおかしいw笑えるw

そう、最早私はバカなのだ。

変哲から哲を除いて変なのだ。

狂っている。

記憶できない。

欠けてしまっている。

嘘嘘嘘嘘。

そうやって逃げようとしているだけ。

知らない。

どうしてなんだろう?

勉強しないからだ。

勉強?小説の1ページも覚えておけなくて、頻繁に読み返しているのに?できっこないよ。

そう、終わってる。

ああ、もう、どうしたらいいの?

なんか私はおかしいの。

そう思い込んでるだけ。

そうなのかな?

でも、解らない。

目が覚めている時と、目が覚めていない時と、それがある感じがする。

なんだかとても生きている心地がしない。

誰なんだろう?否、私は誰になろうとしているんだろう?

僕は?僕はどこなんだろう?どうあるべきなんだろう?

解らない。

解らない。

今はまだ、生きているフリができているからマシなのかも知れない。

そんな気もする。

どうかな?これもフリのような気がする。

私って本当はまともなんじゃないかしら?

どうかな……。

なんか疲れた。

調子が悪い時って、こういうことの繰り返し。

1ヶ月周期で起きている期間と凹んでいる期間を繰り返している。

これって双極性障害っぽいんだけど、私はこれを自らの立場のコントロールに利用しようとして自ら増幅したりしているみたい。ネットで調べた感じだと演技性パーソナリティ障害っぽいと思ってる。

でも、そういう自己診断って危険だし、それによって自分の行動が方向づけられてしまう危険性もある。

確定した診断名はSAD/社会不安障害なんであって、ひとまず私は私をそれによって語るよりしようがない。

障害っていうか、まぁ、人間の性格の多様性のひとつ、として捉えられるようになるべきだと僕は考えるわけだけれども、現状の日本社会、特に大企業ではない中小企業においては、そういう社会不適合者に対するケアなんてものは望むべくもない。

一方で、そういう社会不適合者はむしろそういう中小企業に流れ着いてしまう、というのもまた日本の現実で、だから僕は中小企業の人材管理についてもっと労基署などがフォローする体制が必要だと考えているんだけれど、まぁ、僕には間に合わないよね。

ぐだぐだ愚痴を書き連ねてみたけど、とにかく今の現状を打破する方法を私は知らない。

だから愚かなことを書き連ねるしかないのである。

調べろって?

うん、まぁ、それが解らないからね。

解らない。解らないんだ。

違うな。

何かを調べて「解った」と感じるための自信がないんだ。

自分を信じてない。それに尽きる。

わけわからんな。

ひとまず生きていくしか選択肢はない。

この「一択しか無い」というのが、「私は何なのか?」という問いの発生源である。

選ぶものが無いのなら、私でなくてもいいのではないか。

選択肢があり、採らなかった選択肢について後悔がまとわりつく、それが「選択する主体としての私」の存在証明なのかもしれない。

自分を失う日々というのは、選択肢を失う日々なのだ。

ううん。

忘れろ、ここに書いたすべてを。

(追記)

せっかくだし、気の向く限りいくつかのエントリに分けて自分の精神史を整理しようと思う。

毎朝、頭の中で僕の右腕を切り落としてサイコロステーキにして食べる女性の話とか、そんなの。