I・アシモフ『われはロボット』ハヤカワSF/小説感想

感想を書いているのは5月11日。

読み終わったのが5月1日だから随分経ってしまった。

かの有名な「ロボット三原則」が認知されるに至った書。

この「ロボット三原則」は現実的には実装に大きな課題があるものの、巻末で瀬名氏が触れているようにそれは家電の持つべき「安全・便利・丈夫」の条件に合致し、また、アジモフ自身が作中で触れているように優れた人間の条件「他人を傷つけず、能く他者に仕え、そして自身の生命を大切にする」という条件に繋がる。

つまりそれは人間社会への適合性の問題なのだろう。

よって、この『われはロボット』に描かれている種々の「ロボット三原則」の曖昧さがロボットとそれを使う人にもたらす混乱の情景は、即ち人間対人間の関係にも当てはまる。

そう考えた時、では第0条はどういう意味を持つのだろうかと考える。

アジモフを担当した編集者は人種差別主義者であったと言うが、アジモフはそうではなかった。

そしてアジモフ自身は「アジモフになりたい」と死の間際の床で漏らしたと言う。

アジモフは自身を人間だと確信できていなかったのではなかろうか。僕はそう考えている。

だからこそあれだけロボットを描き、ロボットと人間の境界を描き、人間自体を描こうとしたのではなかろうか。

ところで、この翻訳はちょっと生真面目すぎてジョークを上手く表現できていないのではないかと思っている。原文を確認する機会がちょっと簡単に得られそうに無いので憶測になるがいくつか挙げておきたい。

例えば、63ページ4行目のドノヴァンのセリフ「胸まわりが十フィートはあるね」は「バストが十フィートあるね」じゃないだろうか?

それから、92ページ14行目の「零下二百七十三度。」というのもキャルビン女史と零ケルビンを引っ掛け、また、抵抗が成功する見込みがゼロという意味も含む皮肉のようだからそういう含意が欲しい。

他にもいくらかジョークが出そうなところで出なかった場面があって、少し物寂しい感じがありました。

翻訳って難しいですけどね。

原書に勝るものはないってことかぁ……