ファンタジー/daily

アーシュラ・K・ル=グウィンゲド戦記』を再読しています。

前に読んだのは小学生の頃だったのだけれど、それにしてもぜんぜん内容を憶えていない。

修行のシーンや竜との戦いのシーンなど、まったく新鮮な気持ちで読んだ。

当時の僕はおそらく影という存在に興味があり、そしてその結末に受けた衝撃があまりに大きすぎてそれ以外の部分を忘れてしまったに違いない。

1巻「影との戦い」を読み終えて、今は2巻の「こわれた腕輪」を読んでいる。こちらは一部分どころか全く憶えていない。

当時の僕は、序盤のアルハが女性と言うだけでうまくのめりこむことができなかったのだろうから、それもそうかもしれない。僕が他人の心の動きに注意を払うようになったのはようやく中学生以降で、その頃には逆に部活が忙しくて本をあまり読まなくなっていた。

ああいう多感な時ほどこういうファンタジーに仮託されたメッセージを深く心に刻むことができると言うのに、惜しいことをしたと思う。

そういえば、昨日の夕刊では、上橋菜穂子「守り人」シリーズが書評欄のコラムで紹介されていました。僕は最初の3巻しか読んでいないですけれど(というか、この記事で初めて全10巻である事を知って驚いた次第ですが)、あれは本当に良い子供向け、あるいは母親向けのファンタジーであると思います。

荻原規子「空色勾玉」もそうですが、思春期―というより第二次性徴の時期―にこそ、大人と子供の違いをゆっくりと語り、そして主人公と共に子供が大人になっていく子供向けファンタジーは読まれるべきと思います。そして、子供を育てる頃に再読するのもまた良い。

活発な少年少女と大人しい少年少女の二つに分けるとしましょう。

それは相対的な評価軸なのですが、実際クラスの中で趣味の近いもの同士数名の小グループに分かれる中で、グループ単位で活発さを宗とするものとそうでないものに分かれるでしょうから、この区分でよいと思います。

活発な少年少女はその強い生命力を背景に衝突し、傷つきながらも早く立ち直りながら「大人」になっていきます。

大人しい少年少女は、そもそもその繊細で傷つきやすい精神の結果として大人しくなったのですから、彼らの活発な友人たちのように衝突しながら成長していくことが難しい。だから、大人が噛み砕いて形にした本と言う餌を食べることは、彼らにとって必然なのではないかと思うのです。

そうした意味を持つ子供向けファンタジーに必要なのは、始めは愚かでやがて苦悩しそれでも生き抜こうとする主人公であり、そして彼らを導く大人の存在であると思います。

ところで、『ゲド戦記』はそういう子供向けファンタジーの枠に収められがちですが、序盤こそ子供向けのファンタジーなものの巻を重ねるにつれ哲学的な大人向けのファンタジーへと変わっていってしまいます。本当に「子供」だった僕は小学生のときに理解できなかった(『指輪物語』もそうでした)。そして、大人になった今再読しているわけです。