底流/daily

街を歩いていて変わった服装をした人たちを見つけた。

彼女達は、彼女達なりにそう在りたい姿に近付こうとしているに過ぎない。

彼女らが変わった服装なのは、その方向性が稀少だというだけ。

僕らは普通とされる範囲の中にそう在りたいという方向性を見出し、それに近付こうとしている。

意志を表示するディスプレイ。

中身を外見で表現しようとする。

ファッションの本質は同じ。

方向が違うだけ。

でもそれを殊更に批難する人がいるのは何故だろう?

まるで、普通に統一されるのが当然だというように。

皆が同じであれば争いは生じないのだろうか?

骨格も、体格も、五感の感じ方も違うのに。

完全な同じなどありえない。

丸顔にはロングが似合う。細面には短髪が似合う。

それぞれがそれぞれに相応しいものになればいい。

なのになぜ同じであろうとする?

何かが同じでなければならないのだろうか?

それは何だろうか?

均質である事によって、どうなりたいのか?

みんな、幸せになりたいのだ。

それぞれがそれぞれに感じている幸せの形を実現しようとする。

同じ感じ方、同じ考え方であればそうなると考えているのだろう。

また別の人は、大声で自分の存在をアピールしたり、他人をほしいままにしたり、そうすることで自分を幸せにしようとするのだろう。

けれど、それを不快に思う人がいるだろう。

そうして争いが生まれる。

みんなで幸せになればいいのに。

大勢で笑ったり喜んだりする方が気持ちいいのに。

静かであるよりも少し賑やかな方がいい。

それを知らない人はいないだろうに。

幸せなこと、気持ちいいこと、快感、そういうものが生き物として最善のものだろう。

美味しいもの、かぐわしいもの、聴き心地良いもの、触り心地良いもの、そういう快なる感情を僕らは追い求める。それは五感だけではなくて、良い物語など知性でも感じる事ができる。

そしてそれはある瞬間には個々人一つしか感ぜられない。

大きな財貨を持つことは連続する瞬間を幸福にし続けるかもしれない、しかし、それで幸福になれるのはその財貨を持つと感じている人だけだろう。

幸福の単位は、人数で計るべきだろう。

その基準は当人に委ねられているが、しかし、幸せと感じている人数で計るべきだ。

他者から搾取する事で幸福になる人は、自分という幸せ者を生むと同時に一人の不幸な人を生んでいる。これでは差し引きゼロだ。

誰も犠牲にせずに一人で幸せになる人と、自分を犠牲にして他人を幸せにする人がいる。彼らは、それぞれに一だ。

自分が幸せになると同時に誰かを幸せにすることができる人は、二つの幸せを生んでいる。こちらの方が、心地良い。

他人を幸せにする方法を知っているのなら、自分が幸せになるべきだ。

不幸せでは人は生きていかれないから。

そうやって繋がっていければいい。

もし力が及ばなくて誰かを不幸にしたら、それを悔いてもっと強くなればいい。

間違った行動をする人が居て、傷付けられたと感じても、些細な事は寛容さをもって許容すればいい。度を越したら諭せばいい。

個々にできる限りの事を誰かが幸せになるためにすればいい。

そうやって誰かの幸せを考えるために、話をして相手を理解して、そうやって繋がっていく。

そんな事を天神の街中で人とすれ違いながら考えてた。

きっとこういうことは何千年も前から誰かが知っていた事だ。

小説家や音楽家や詩人や宗教家や政治家だけじゃない、もっとあらゆる職業にある人たちの誰かが気付いて、それぞれにそれぞれの能力でできる範囲で実現していた。

方法が違っただけだ。

小説家は文章で、音楽家は音楽で、政治家は政治で、農家は農業で、大工は家で、それを体現した。

知っていた人は知って、そしてそうやって生きていた。

住む人の幸せを考えて家を作る大工。

食べる人の幸せを考えて畑を耕す農夫。

読む人にそれを伝えたかった小説家。

一人の力は限られていて、それが伝わる範囲は狭い。

だけど、それが伝わっていけばいいと思う。

そして僕は僕なりにそうやって生きていく。

こうやって良いことを思いついたら書きとめる。

自分ができる範囲の幸せを守る事しかできないのは、悪い事じゃない。

多分、そういうこと。