生死と好悪/物事

あれは中学3年生の時だったか。

ある日、中学校の道徳の時間にこういう授業が行われた。

倫理に関する質問に対してイエス・ノーのどちらかのエリアに移動して回答し、その後イエス組とノー組でちょっと意見交換をするという形式だった。

いくつかの質問をやっていく中で僕はいつも少数派だった。

そして、「自分の事が好きですか?」という質問で、ついに僕はたった一人イエスに残った。記憶が確かならば、僕は一人だった。

あの時の僕とその他のクラスメイトの間に、僕はほとんど絶望的な距離感を感じて驚いた記憶がある。その驚きがあまりに大きくて少し取り乱し、結果として記憶がイマイチ曖昧なものとなってしまっている。

先生はこう言った。

「落ち着け、○○。別にお前が悪いわけじゃないんだから。じゃあ何でお前は自分が好きだと思うのか話してくれるか」

僕はだいたいこういう感じの事を答えた。

「嫌いな所もたくさん有りますけど、本当に自分の事が全部嫌いだったら僕は生きていけないです。だから結局、僕は自分の事が好きなんだと思います」

伝わったかどうかは別だが、そういう事を言ったと思う。

今もこの考えは変わっていない。

究極的に、人は自分が好きだから生きていけるのだ。

生きていて何らかの、それは具体的にイメージできる出来ないに関わらず何らかの、希望があってそれが好ましいと思えるからこそ生きていけるのだ。

では何故、僕はあの教室で一人になったのか。

それは恐らく、殊更に自分を「好き」であると認識せずとも自然に自己を肯定して生きているからではなかろうか。だからむしろ逆に自己の汚点を意識して、自分を嫌いと言う。それは成長の可能性に繋がるし、とても正しい。

僕は逆に、自分を「好き」であると意識しなければ生きていけないと言った。それは、自己否定が僕にとって自然な状態であり、むしろ逆に自己の長所を意識しなければ生に繋がる事ができなかった。そういう心理的な基礎の違いが、自己認識の違いに現れたものと考えられる。

自己認識の違いはあっても、現象としては「自己の長所短所を意識しながら自己の感性を目指して生きている」という形で両者は共通している。

現状の好悪に関わり無く、人は自身の未来を肯定する事によって生きている。