記憶の方式/思索

ある概念を記憶する時、その概念はさまざまな情報と連結される。

例えば、「パン」という概念を憶える時のことを考えよう。

「パン」の映像(視覚)、臭い(嗅覚)、味(味覚)、手触り(触覚)、温度(温覚)、重さ(圧覚、運動覚)などの知覚情報と、

「パン」という名前、食べ物だ、原料は小麦粉、製法:焼く、食べ方:そのまま食べられる、おいしい、などなど…

そしてそれらの情報を得たエピソード記憶と連結されて記憶される。

一つの概念を憶えるだけでこれだけのシナプスが方々に伸びる。

次にパンを見た時には、このうちの映像の記憶が刺激され、そこからパンという概念、そして名前に辿り着き(名前は概念と区別しづらい認識だなぁ)、そこから食べ物、臭い、味、と次々に記憶が再生されていく。

もし目隠しした状態で食べたとすると、味覚と嗅覚と舌触りの刺激によってパンと言う概念に辿り着くだろう。(もし鼻をつままれたら情報が少なすぎて混同する可能性が高くなるが)

こうして、その概念から連結される概念が多いほど、その概念は思い出しやすいことになる。

教科書を映像として視覚で憶える。

音読して音声として聴覚で憶える。

書いて身体感覚として運動覚で憶える。

これらはそういう記憶の糸口を増やすために、概念に概念以外の知覚情報を連携させる行為だ。

僕はあまり記憶力がよろしくないので、この視覚、聴覚、運動覚を意識的に活用して勉強していたが、本来は聴覚を記憶の拠り所とする部分が大きい。

人の名前を憶える時、名前を思い出す時のとっかかりは声であることのほうが多いし、音が記憶を呼び起こす事が日常生活の中でも多い。

人はおそらくそれぞれに得意な感覚があって、記憶においても無意識にそれを記憶方式の標準に据えているのだろうと思う。

さて、得意な感覚に偏りがあるということは、視覚、聴覚が苦手で味覚が得意だとか、触覚が得意だとか、圧覚が得意だとか、運動覚が得意だとかがありうるということである。

幼少時などは意識よりも感覚によって日常を過ごすために、この差異は大きく感じられるだろう。だから、子供達は分野毎の得手不得手が明確なのかもしれない。味覚の鋭さは評価される機会が無いから不利かもしれない。

だが多分、それは経験によって解決される。

僕も映像で記憶する方式は、そういう憶え方があると本で知ってから練習したものだ。これを練習すると絵も割と上手く描けるようになる。

感覚も鍛えることが出来るし、その後の情報処理も鍛えることが出来る。

要は、鍛えられるということを知っているかどうかなのだろう。