行政/まちづくり
行政の仕事を突き詰めて考えると、都市計画に行き着く。
どのような都市像を描き、どのようにしてそれを実現するか。
それは100年単位の大事業である。
首長の選挙については、都市像の選定や都市像から求められる必要な事業を実現する順番が争点となるだろう。
議会は、市民の総意の体現たる首長に対して、市民の意見の多様性を体現するものであり、単一性と多重性の切磋琢磨こそが市議会の意義であろう。
首長と議会によって実現される立法権は、都市計画の実現を法的に補足するためにある。
つまり、都市像の実現のための誘導規制である。
また、都市計画の決定もここにおいて成され、法的な保証を得る。
作り出された法や計画の正当性にごく一般の市民から異議がある場合、司法権に訴える事でこれを吟味する事ができる。
つまり、司法権には法の専門家と計画の専門家が必要である。
行政権は首長に属するが、その実現に関しては役所がそれを輔弼する。
つまり、計画の素案を作り、必要な法の素案を作る。
また、都市像の実現のための予算案を作成する。
予算案は事業毎に作成される。
決して、担当課毎ではない。
担当課は、事業計画とその予算を提出し、首長と議会、及びその諮問機関が優先順位を判断して年度事業が決定され、予算が事業に配分される。決定された事業費は、その額のまま自由競争入札に掛けられ、民間企業へと支払われる。
予期不能の自体に対する予算(災害、緊急事態)への対応への予算は、予備費として事業費とは別に取り置かれ、危急に応じて各課より申請可決されるものとする。
また、自由競争入札によって浮いた予算はこちらに回されるものとする。
人件費については、これらとは別区分で計算されるものとする。
もし、事業費の概算が高すぎて予算が沢山余ると、行政は概算の甘さを市民に追及されることとなる。
もし、事業費の概算が低すぎて入札企業が現れない、または技術力の足りない企業が入札すると、また、行政は概算の甘さを市民に追及されることとなる。
行政の適切な概算によって正当な競争が行われれば、若干の浮きが予備費へと回される。
これならば不正の発生する余地は少ないし、発生した所で明瞭である。
災害などが発生せず、大過なく過ごした年度末には、余りが生ずる。
この余分については、災害予備基金として行政が運用するところとなるが、要は翌年度予算において予備費を低めに見積もる要因となるために、一種の繰越金の扱いと同様となる。
ここにおいて、公共事業の効用には雇用などの経済波及効果などという刹那的な効果は数えず、純粋に機能でしか評価しない。
ここでいう機能とは、それが存在し、運用される事によるハード的、ソフト的効果の事を言う。例えば、堤防のハード的機能は洪水防備であり、ソフト的機能とは景観を含む憩いの場としての存在であろう(この点、もっと詳しく論ずる必要があるかもしれないが、記事の本筋から逸れるので割愛する)。
また、施工後の管理についても、民間企業の参入を促す。
福祉等の分野についても同様である。
都心部再開発については、完工後のその区域に入る民間企業の資本を利用すれば良い。必ずしも行政が主体的に金をばら撒く必要は無いのだ。
これらの小さな行政システムは、成熟した資本主義社会においてのみ成立するだろう。
“成熟した”という枕は、つまりは戦後や大災害後の大きなダメージを受けた“未熟な”資本主義社会では、民間に力が無いために法という力によって支払い能力を保証した国家が資金源となり、キャッシュフローを生み出すしか無いからである。
しかし、“成熟した”資本主義社会であれば、行政よりも民間に資金が多く存在しているはずであり、行政が無い袖を振るよりも民間をルールの中で自由に活かす方が効率が良い。
行政が全権を持つ、それは論理的には社会主義国家であるはずだ。
(50分掛かったか…)