「全然大丈夫」は大丈夫か?/言葉

「全然+肯定文」について、日本語の乱れを嘆く文章を見るにつけ、ちょっと「そいつぁ、どうかな?」と疑問に思わずにいられません。

僕は、「全然大丈夫」の用法は間違っていないと思います。

「全然」は元来が「全く、悉く」を意味する語である点に注目すべきだと思います。辞書では二番目に挙がっていますが、“全ク然リ”という漢字を見る限りこちらが本義でしょう。

これが否定を伴うのは、単なる修辞上の強意のためと考えるべきです。

例として、同じ意味の「全く」は、「全然」と同様に「全く~ない」の用法が知られますが、「全く~である」の用法も一般的に使われています。

必ずしも否定は伴わなくて良いのです。

そして、「否定を必ず伴わなければならない」というのは、思い込みに過ぎないのではないでしょうか?

「用例の主流である事」は必ずしも「語の正しい用法である事」の証拠にはなりません。時間の流れの中で意味が正反対になる語もあるくらいですから、言葉において「主流=正統」は危険です。

「否定を伴う形」が主流となり、「否定を伴わない形」が傍流となっているために、傍流が存在を否定されている。

「全然~です」への批難の構図はこれです。

では、何故否定を伴う形が主流になり、肯定を伴う形は傍流となったかについてですが、僕は全否定と全肯定の使用頻度に原因があるのではないかと推察します。

使用頻度は、全肯定よりも全否定の方が圧倒的に多い。

辞書を引いても全否定の表現は簡単に見つけられますが、全肯定の表現は殆ど見られません。

人間、相手を肯定する時は控えめに、否定する時は思いっきりというのは心情としてしょうがないでしょう。

全肯定を多用すると軽薄な印象を与えかねませんし。

つまり、全肯定より全否定の方が多用される事情から、全否定の用法が先に定着したのだと考えられます。

更に、論文や社説などの公的な論述においては、物事を語る際に“全肯定”よりもはるかに“全否定”の方が多く用いられるでしょう。

それは、同じ意味の「全く」に比べ「全然」は、漢字二字によって構成されて、“堅い”イメージがあり、権威を持たせやすいからです。よって“全然”全否定は重宝され、現に説得力を持った事でしょう。

逆に、“全肯定”にはとかく軽薄な印象が付きまといます。

現代においても、「全然オッケー」は信用できない言い回しの代表格であるように、昔から全肯定は信用されてこなかったでしょう。

そういう中で、「“全然”は“~無い”で使うもの」というパブリックイメージが定着したのでは無いでしょうか?

以上より、「全然~である」に違和感を感じ、「全然~ない」を是とするのは、単に慣れの問題であると考えられます。

言語的には「全然大丈夫」は「全く大丈夫」でしょう。

ただし、「全然大丈夫」と口にするヤツは信用したら駄目です。

言語的には大丈夫ですが、現実的に大丈夫じゃないです。

大抵失敗します。「全然大丈夫、じゃ無い」です。

ええ、例えば、僕とか。

<061106:追記>

更に言えば、現代社会全体が自己を全肯定したがっているという世相もこの「全然大丈夫」と無関係ではないだろう。

一方で、この「全然大丈夫世代」以前の生まれの人間にとってはやはり、「全然大丈夫」という言い方は不適切と感じるであろうし、そういう異なる世代との会談において円滑に違和感無く会話を成立させる上では、こういう世代依存の言葉の使用は極力避けるのが大人の配慮と言うものであろう。

また、「全然大丈夫」に代表される全肯定の用法について、明治時代の作家群に起源を求めることができるが、その使用においてこれらの作家群はその違和感を印象的に用いるという文章技法上の工夫を意識しているのに対し、現代の全肯定は違和感を意図しない自然発生的な使用であることも留意の必要があるだろう。