思考の速度/思索

何かものを考える時、その思考の速度の限界はどこにあるだろうか?

今、そして大抵の場合、僕は考えながら頭の中で音声を再生している。

これは自分の脳の中で反響させながら思考の内容を確認しているのであろう。

となるとこの時、思考の速度の限界は発声の限界に制限されていると思われる。

しかし、である。

人の思考は言語から成っている。

思考は論理に論理を重ねる。その為には論理を記録する言語が必要だ。

そこには本質的には音声は不要である。

それは恐らく、速読に於いて「頭の中でも音声化しないで、映像として読む」のを要としている事と無関係ではあるまい。

つまり、思考に音声化は不要であり、本質的には思考の速度は発声の限界に左右されない筈だ。

それが日常、現に制限されているのは、所詮音声のコミュニケーションにどっぷりと浸かっているが故、であろう。

ここにおいて、古今の天才がその思考において凡人の及ぶべくも無い速度で論理を構築しうるのは、一重に音声に思考を任せざるが故ではなかろうか。

それには恐らく日常語も用いていまい。例えば数学であれば数学の、物理であれば物理の、概念とそれに対応した呼称から成る言語を彼らは用いて、その超速の思考を遂げているのだろう。

音声を用いなければその論理は何でもって記録されるだろうか?

それは恐らく画像であろう。

画像は一瞬にして理解が可能だ。思考の速度をさして落とす事は無いだろうから。

つまり言語を字面のまま、思い浮かべて思考を構築できれば思考の速度は格段に向上するはずである。

そうして成された一瞬の思考はただ、脳内の伝達速度―電流やら神経伝達物質やら―に左右されるばかりであろうから、まさしく超速の思考速度となろう。

こうして考えると古今の天才がその回答に至る道筋を問われて返事に窮する、という逸話に事欠かないことに一応の理由がつけられはしまいか。

つまり、彼らは日常使う音声付きの言語ではなく、音声抜きの言語を使用したが故に早く思考したのであり、その論理の記録も音声抜きの言語で記録されている。

その音声抜きの言語を音声付きの言語に翻訳するのが困難が故に返事に窮したのではなかろうか。

しかし結局は、人の多くは音声のコミュニケーションによって成長し、音声抜きの言語に親しみにくいためにこのような思考法の訓練は非常に時間が掛かるであろう。

さて、ここからが本題である。

もし、かの映画『MATRIX』のように人とコンピューターが接続される時代が訪れたとすると、人の思考速度は新たなコミュニケーション―それも音声抜きが当たり前の―を手にする事になる。

すると、誰もが超速度の思考を手に入れ、あらゆる発明が容易に成されるようになるのだろうか?

いや、人の頭脳は大変な並列処理回路であるから、コンピューターも及ばない速度を達成するかもしれない。

あらゆる人がモノスゴイ速度で物事を考え、科学のあらゆる謎は解き尽くされて・・・科学の面白さは消え去ってしまうだろう。

しかし、人間の面白さは無くならない。

相手の思考はますます解りにくくなり、恋の悩みは結局解決されないだろうから。

さて、かといって僕はそんな時代の到来を望みはしないなぁ。

やっぱり音の響きが好きだし、何よりそんなコンピューターみたいな暮らしはうんざりだ。

のんびり暮らしたい。