瀬名秀明『デカルトの密室』新潮文庫/読書感想

すっげぇ面白かった!

半分くらいしか分かっていないと思うけど、その半分しか分からないというのが面白い!

ジャンルはSFでしょう。「密室」という表題に騙されたミステリファンにはごめんなさいと謝るしかない。謝るしかないけど、ミステリファンの結構な部分はSFファンに重なるだろうからそんなに謝らなくてもいいだろう。

さて、本書はこんなあらすじ。

下半身不随のロボット研究者・尾形祐輔は人工知能コンテスト「チューリング・プライズ」に参加するためのオーストラリアのメルボルンを訪れる。その年から人工知能コンテストはロボット開発を手がける企業『プロメテ』の後援により大きく様変わりし、更にそれに加えて、数年前に交通事故に遭って以来斯界から姿を消していた美貌の天才科学者・フランシーヌ・オハラも参加すると発表されて、参加者は奇妙な期待を持って開場を訪れていた。

そしてフランシーヌは現れる。そして、変わらぬ美貌に表情を浮かべぬまま、この大会の意義すなわちチューリングテストによって人工知能の人間らしさを量ることの可否について疑問を投げかけるのだ。そのチューリングテストの問題点を示すための実験に被験者として参加し、その人間性を揺さぶられたユウスケは、会場からホテルに戻るまでの間に何者かに拉致されPCしかない部屋に幽閉される。

チューリング・プライは始まった。ユウスケが作ったロボット・ケンイチは日本からネットを介して大会を閲覧していたのだが、その人とAIとの“対話”たちの中に奇妙な一対があることに気がつく。その“AI”は自らをユウスケであると名乗り、助けを求めていたのだ。

ケンイチは同じく以上に気がついた心理学者・一ノ瀬玲奈と共にユウスケを救出すべくメルボルンに降り立つ――。

ロボットの人間性を問うことで人間とは何か?知性とは何かを問う意欲作。

この作品の最大の問題点は、衒学趣味に見えてしまうこと。

意識・無意識や実存、自我など、デカルト実証主義の中心たる観測者に据えたもの、そして、人工知能の研究者が目指すものの実態としての定義の困難さを示すために、それらを議論して来た人々の400年来の情報がこの作品には詰め込まれている。

だから、必然的に衒学趣味的に見えてしまう。

でも、これは、ロボットを題材として人間性とは何かを書く上で必要な情報であるから、衒学趣味とは言いがたい。それは、ロボット技術が直面しようとしている問題に付いて、なるべく現実に即した形で書き起そうとしたために生じた「詰め込み」なのだ。

確かにここにはアシモフによる『われはロボット』が描き出した単純さはない。しかし、より進展した現実に即して同じテーマで書こうと挑戦する心意気は買って欲しいものだ、人間としては。

むしろこれだけ詰め込んでなんとか一つの作品に仕上げきったのはすごいと思う。

さて、しかしここに大量の情報が詰め込まれているのは事実である。

僕だってこれを去年読んでいたら、知らないことが多すぎて自尊心を打ち砕かれただろうと思う。

それくらい書いてある内容はマニアックだ。

この『デカルトの密室』を楽しむためにはいくつかの必読書があると思うので紹介しておくべきだと思う。謝辞あるいは解説において誰かが言及しておくと衒学趣味と言う糾弾へのエクスキューズになったかもしれないが、現実にはそれがないので仕方ない。僕が紹介できる作品は僕が見たことがあり、本作に関係ありと判断できたものに限られるので補足があると嬉しい(場末のブログだから無理と思うが)。

まずは、デカルト方法序説』は読んでおくべき。まあ、この本を手に取っている時点で理系趣味であるのは確実なのだけれど、大学教育ですら科学史を学ぶことによる科学的姿勢の醸成に無関心である現在、必読と言っても読んだことがない人は多いだろう。(斯く言う僕も残り4ページで紛失したのだが)

それから、アーサー・C・クラーク2001年宇宙の旅』、アイザック・アシモフ『われはロボット』も必須であろう。クラークが生んだ「HAL9000」は人工知能を取り扱った作品を描く上で避けては通れないし、『われはロボット』はアシモフが生んだいわゆる「ロボット三原則」から導き出される問題を描いた作品であり、ロボットの視点から人間の倫理を問う構造としてこの『デカルトの密室』の本歌とも言えると思う。

あと、JAZZを見に行く前のシーンで映画『スウィング・ガールズ』が登場するが、このくだりを楽しむのにこの映画を見る必要が多少、あると思う。だが、これはさすがに失策だと思う。確かに『スウィング・ガール』は良い映画だったけれど、ここでJAZZに至る媒介物が『スウィング・ガール』では効果が弱い。JAZZの即興性をより印象付けるのであれば、即興を代名詞とする……んー、誰だっけ名前が出ない……そういう大家を借りたほうが良かったと思う。ずっとここまで大家を引用して来てるのだし。

そういう意味で物語文学の大家である『指輪物語』も登場している。ただこれは、「人間が人間性の発言として物語を創作する」という事例の代表として便宜的に援用されたにすぎず、必読書とまではいかないと思う。しかし、そのくだりが『デカルトの密室』にとって重要であることには注意が必要。主人公ではない者の持つべき矜持こそが普遍的人間性につながるから。

その他のこまごまとしたターム、「チューリングテスト」や「中国人の部屋」、「フレーム問題」、「不気味の谷」などについては作中に説明されているからそれで十分だろう。興味があれば、この手の哲学書を手に取ってみるのもいいけど。

終盤に登場する「オーグメンテッド・リアリティ」については実物の映像を見ることでイメージを掴む必要があるだろう。視覚的な効果であるために言語での説明がいまいちだからだ。まさしく百聞は一見にしかず。便利な時代になったもので、動画サイトから引用しよう。

有名なのはこれ。

これをゴーグルを掛けて見せられている状態を想像したらいい。

ニコニコ動画ではARToolkit(本家→http://www1.bbiq.jp/kougaku/ARToolKit.html)による初音ミクが有名だけど、ネームバリューと見た目のわかりやすさで便宜的にピカチュウを例示しとこう。

つまり、撮影中の画像から平面を認識してその上に任意の3D画像を配置するプログラムです。

ゴーグルで仮想の看板に道案内してもらうとか、そのまんまゲームに使うとかそういう用途が考えられる技術。ロボットがどうやって現実を認識するかと言う技術から派生したんだっけかな?

デカルトの密室』中では、ゴーグルを付けた人間とロボットの動きを同調させるシステムと組み合わせてことによって、異なる地点の画像を認識させたり、異なる地点の物体を動かさせたりしています。

さて、そろそろ衒学趣味的な記事になってきたので自重して終わろうかな。

いや、衒学趣味的解説が必要と言うのはやはり衒学趣味的作品なのだろうか?

うーん……僕としては作者が真摯にこれまでの議論を踏まえすぎた結果だと取っているのだが……。

例えば、学術論文では既往研究でなされた議論を踏まえた上での論旨の展開が必須だ。それは作法として要求されていることで、それを衒学的と避難されては学問は成り立たない。

つまり、衒学趣味的ではなくて論文的物語小説なんだよな、きっと。

この作品で、作者は意図的に語り手が人間であるかロボットであるか分かりにくいように書き、読者の人間性も揺さぶろうとしている。

人間がフレーム問題などに惑わされること無く自然に人間らしさを享受してきたことに気付かせようとしている。

その試みが面白いので、ぜひ、これらのハードルを乗り越えて楽しんで欲しいと思います。

(090113追記)

フランシーヌについて、似ている真賀田四季と比較してみた文章をものしてみました。

⇒四季とフランシーヌの違いについて/読書感想