ブログを書き始めてこんな威勢のいいこと書くのは3回目とか?/自己言及

所属が変わるということは大きな環境の変化に見舞われるということだ。

幼稚園から小学校、小学校から中学校、中学校から高校、高校から大学、大学でもサークルからゼミ、ゼミから社会へ、人生のステージは変化していく。

ある人間の果たす役割はその所属する組織の構成員との相対的な力関係によって決定されることがほとんどである。

中学校で秀才と名を馳せても高校では凡才以下というのはよくある話だ。

さて、僕はどんな役割を果たしていたろうか?

小学校の頃は、僕は背が127センチで体重30キロと小柄で、運動神経も鈍く、泣き虫で、空想癖がある少年だった。話していることの意味があまり伝わらなかったり、考えていることが突飛だったりしたので、リーダーシップなど取れるはずも無く自然と物静かになり控えめな位置に立つようになっていた。

それは、構成員の質がほぼ小学校と同じ中学校でも同様だったが、

違ったのは中学校に入った直後は環境の変化によるストレスを発散させる方向を誰もが見出せずにいたことだ。「小さくて軽い、話が苦手」というのは弄って楽しいので、僕がその対象となった。元々辛抱強かったこともあって、粘り強く勉強に取り組んだので相対的に成績が目立つようになったというのも、注目される要因になったのだろう。僕はこんな環境の中で、苦境には耐え、無害であることによって存在を悟られないようにしてやりすごすことを覚えた。それは、恐竜時代における哺乳類のような「小動物的ポジション」だった。そして、それを居心地がいいものと思ってしまった。

このストレスを処理する方法は二つあるように思う。

一つは、我慢して自分の中に蓄積すること、蓄積していつか復讐の日が来ることを信じること。

もう一つは、ストレスに対して不感症になること、すべての痛みや苦しみを当然のものと思い、自ら加えたり、そうなるように仕向けること。

僕は前者を採った。いつか大人になったら見返してやろうと思った。

そして高校生になった。

所属する組織の質が大きく変わり、僕自身も入学当時は147センチくらいだったのが、160センチ⇒165センチまでアップして、「すごく小さい」から脱出しました。自分より背の低い同級生の女の子というのはとても新鮮だったし、電車に乗って肩から頭が出るというのもうれしかったです。

しかし、そういう環境の変化と自分自身の変化にもかかわらず、僕は「小動物的ポジション」から抜け出すことができませんでした。

…というよりは、あまりに無害なポジショニングだったために、そのポジションから脱却することを求められなかったこと、また、他人に無害ということは自分にも無害ということであり、自覚することができなかったために脱却など発想し得なかったということでしょう。

そして、その無自覚状態は大学3年間も貫かれた。

貫かれたことは貫かれたが、さすがにこれはおかしいと気がつきはじめた。それは「自分は無意味な存在になってはいないか?」という、少し見当はずれなものだったが、確かに僕の中に自分の在り方についての疑問が生まれていた。

大学生活ではそれまで以上に個人の知性ではなく、集団として行動する力が求められる。それは、コミュニケーション力であり、組織力であり、企画力であったりする。どんな学生でも対プリ(シケタイ)の作成に関与し、飲み会を企画し、雀卓を囲んだり、サークル活動に励んだりする。そうする中で、小中高ではあまり経験が無かった、流動的な組織における役割の定め方を学ぶのだ。

僕はただ誰もに無害であることにだけ気を配り、誰かに有益であることを考えなかった。よって、そういう能力を育成する機会を逸した。ただ、大切な能力を身につけ損なったということに3年生の年度末、就職活動が意識されるようになってから気がついたのだった。

だが、その問題を僕は無視しようとした。取るに足らない課題であると思い込もうとした。

そうして大学4年になって研究室に配属された。

ほぼ同時期に携帯電話を買ったのは、自覚していなかったがコミュニケーションの必要性を感じたことへの小さな反応だったのかもしれない。だがそれは遅かったし、変化として小さすぎた。

研究室において「干渉が小さいかわりに干渉を受けない小動物的ポジション」の維持が困難であると悟らされる。

知らない人に連絡を取らなくてはいけない。

交換条件抜きで物を請わなければならない。

そんなこと、考えたことも無かった。

僕はそれまでの自分の失敗を思い知りかけた。思い知ろうという部分と思い知りたくないという部分との対立があった。

そして、どう挽回したら良いのか見当もつかず、何故間違ったのかが分からず、ただ、確実な変曲点である中学時代を挙げて、その当時の環境を呪った。

呪いながらも薄々自分自身の責任であることを感じ取ってはいたが、自分の責任だと思いたくなかったというのが正直な所だ。自分自身の責任ではないと思い込むことで、少しでも精神的負担を減らしたかった。

10年に亘って安住の地であった場所を捨てるという決断ができないでいた。有害となる可能性を覚悟し、アクションを起こす決意ができなかった。

いきなりそんな大きな変化を自分の内側に起こすことができなかった。

だから僕はとりあえず原点に戻ることにした。

まず夢を掲げた。「作家になりたい」

否定されなかったのは予想外だったが、とにかく絶望的な状況の自分に自尊心が満たされるような目標をすえることで当面の生きる意味としたのだった。

そして自分ができることを再確認し始めた。失敗しながらなので精神的に退行することも多かった。

あっという間に2年間が過ぎて、僕は何にも成し得なかった自分に気がついた。

それが去年の年末あたり。

何にも成し得なかったのに、失ったものはそんなに多くは無いということに僕は驚いた。

修士から数えたとすると4年間の空白。

でも、まだ生きていられている。

もっと勇気を持てば、もっと楽に生きられるし、もっと有意義なんじゃないか?

そう思えた。

ただ、それだけだ。

僕はたったそれだけだった。

この4年間―いや、もっと長い間、僕は自分で無理やり自分を天才だと思い込むことで自己肯定を行っていた。そんなまやかしがないと生きていけない存在だった。

だけど、今はほとんど無価値でも生きていける。そして、生きていることが最も価値があり、その次に何らかの創造があり、そしてその次に豊かさがあるのだと思った。

とても単純なことだけど、生きていることはいつでも死にゆくことなのだから、もう少し思い通りに生きてもいいと思った。

そうやって、自分を表に出すことを人を覚えなくてはいけなくて、それが環境が変わるタイミングにやってくる。中学デビューとか高校デビューとか大学デビューとか、そういうのは、そのタイミングで自分で自分自身を定義することに挑戦しているということ。環境からの変化を抑制する圧力から逃れるタイミングが進学だということ。そして、その自己表現の試行錯誤から、生きる意味を感じ取っていく、それが大事なのだ。

僕は試行錯誤してこなかった。

ただ、知識的に生きる意味を分かったふりをしていて、感じ取っていなかった。

だから、自覚が芽生えなかった。

でも、僕のこの今の自覚も、またいつか否定されて矯正されるのだ。

ずっと変化し続ける。そうして生き続ける。

変化することが生きること。

変化してもいい。

変化するために外界に働きかけ、そしてリアクションをもらう。

そういうことが、足りなかった。

ブログも、インターネットという外界に働きかける窓口となってくれた。

そして、いろんな意見に触れ、意見を表明することで僕へのリアクションをもらった。

それが良かった。

あざっす。

これからもがんばります。

まだ何にもできていないので、なんとか何かを生み出してみよう。

そんな感じです。

そういう感覚が今年に入って少しずつ認識できていたのだけれど、まだ確実な感じがしなかったので、書くことがためらわれていました。

でも、もう書いてもいいかな、と思って。

その程度の覚悟とクオリティが確保できつつあるので。

(……この記事が過去のいろいろな記事が書かれた理由をひっくり返したように、いつかこの記事をひっくり返すことがあるかもしれないけれど、その可能性には目をつぶるとして、経過報告としてここに記す)

(……言語化するとチープ感がぬぐえないのは、これが予感に過ぎず成果ではないからだろう。つまり、僕はこの記事を今後の活動によって実証せねばならない……)