人権について(1)/侏儒雑観

以下のようなことを考えた。

「人権は人が生まれながらにして持つ権利である」と説明される人権だが、この言い回しをより吟味すべきではないかと思う。

人権は西洋で認識された時には、貴族が生まれながらにして貴族であり、平民が生まれながらにして平民であることに対する反発を起源として、神より生来与えられた人間が人間らしくあるための権利であるとされた。

それは、つまり生まれながらとされた上下関係を是正する意識の上に、この権利の主張は成り立っていたであろう。

しかし昨今、人類が皆平等であるという見方が世界的に広まったこと(ただし、その上で尚、意図的に蹂躙する者たちが存在するのだが)から、人権の認識が特にその歴史が古い先進国において変容しつつあると感じる。

最も端的であるのは生存権であるが、これは「殺されない権利」という認識から「生かしてもらう権利」という認識へと変容しつつある。

果たしてこれで良いのだろうか?

生まれながらにして持つ権利として生存権は確かに尊重されるべきである。しかし、それがどのような形で実現されるかについては、しっかりと議論をして認識を共有すべきであろう。

僕は、人権とは「人間が生まれながらにして持つ権利であり、人間が互いを尊重して生きていくために共有すべき概念である」と説明すべきだと思う。

喩えれば、ヒトが生得的に有する言語習得機能が、他者との会話によって概念を共有することで精確に働くようになるように、人間が生得的に有する人権も、他者との交渉によってより精確に働くようになると言えるだろうか?

人権は言葉のように生きていて、その内容は刻々と変化していっている。

そのために特に世代間において、国家間において、また、個々人の間においても、認識に相違が生じて争乱の因となる。

この認識の相違を前提として、絶えぬ議論をなすべきであると僕は考える。

…書いてみると当たり前のような気がした。

どうだろう?