上橋菜穂子『神の守り人』/読書感想
『守り人シリーズ』5作目。
上下巻です。
時系列的には、『虚空の旅人』よりもやや前から物語は始まり、『虚空の旅人』の事件が終了する頃にこちらの事件も終了するくらいでしょうか?
プロローグ。
ロタ国の牢獄の城で、ある女の処刑が行われた。
しかし、その処刑の後、その牢城では何者かによる大量虐殺が行われた。
死体には狼が噛み千切ったような傷があり、そして、城の石積みにすら深い抉られた後が残されていた。
『夢の守り人』の一件からタンダの傷が癒える頃、そろそろバルサに旅心がつき始めます。
タンダはそれを察したか、バルサに少し離れた街で開かれる薬草市への旅を提案します。
その交易の街でバルサはぼろを着た痩せてなお美しげな少女を助けるのですが、その少女には恐るべき力を持った「カミサマ」が宿っており、その力を恐れる者たちに追われることとなるのですが――
「守り人シリーズ」では、これまでにも超自然的な力を取り扱ってきましたが、この作品ではそれが物理的に人間を害するシーンが出てきます。それも、相当に残酷な形で。
暴力を振るう――それは弱い者にとってはもちろん恐ろしいものです。
しかし、暴力を振るう強いものにとっては、その瞬間に圧倒的な全能感という快感を与えてくれます。
ただ、その快感の積み重ねの先に何が待っているのかを知ることは、事前には困難なだけで。
これまで不思議な力と人間とは持ちつ持たれつの関係だけで描かれてきました。
そして、それを権力に利用しようとゆがめる人間の姿。
自身の欲望のためにゆがめる姿が描かれました。
この巻では力を手にした者がゆがんでいく姿が描かれます。
それは十分にショッキングで、権力というものの本質について悩みをもたらします。
著者解説において、上橋氏は再三この作品が9.11同時多発テロよりも以前に書かれた作品であることを強調しています。つまりそれは、権力と権力に対する暴力と、その区別において、この作品の位置づけと関わるものが感じられるということです。
しかし、ここには答えはないように思います。
それは、力がまったく一人の少女にゆだねられてこの作品では描かれているからです。
これはいわゆる「セカイ系」の物語に共通する問題点なのですが、物語を単純化するために「セカイ」を左右する力を「個人」に与える代償として、「社会」の存在が希薄となり「個人」の思想が「社会」を超越した形で実現されることで現実性を失っているということに類似しています。作品の主人公の主体性と、作品に描かれていない一般人の主体性の無さのコントラストが、この民主主義全盛の時代の中で現実味を持って迎えられないのです。(しかし、そういう主体性・当事者性が希薄だからこそ、空想の中で主人公に仮託して強い当事者性を感じられる「セカイ系」は広く受け入れられたのだと思います。)
この『神の守り人』では、国家を左右するという意味で、「セカイ」よりはよっぽど身近ですが、それでも飛躍しているように感じられました。そこが少し、乗り越えられなかったかな、という印象です。
そして、その点が上橋氏をして、9.11と無関係であることを重ねて言及せしめているのだと思います。
9.11同時多発テロは、国家のレベルから見て個人と呼べる小集団が、爆薬という力を持って多数の一般市民を巻き添えにしながら世界を変えようと画策した事象です。そういう、飛躍した発想が、世界を変えられない方法で一般人を巻き込んでいくという思考法が、「セカイ系」として共通点を感じさせ、その共通性から過剰な当事者性を引き出してしまったのだと思います。
かといって、どうしろというのは、なかなか言えません。
この辺りの「力の行使」の問題は深いテーマなので難しいです。
人間個人はずっと深く描かれてきました。しかし、もっと大きな集団、たとえば国家の振る舞いや、世界の振る舞いはとても複雑であまり描かれません。(SFではずっと試みられてきたことですけれど、それでもまだ日は浅い。いつか、人間個人における『カラマーゾフの兄弟』のような、世界国家における作品が現れるのかもしれません。)
しかし、挑戦した結果は、有意と思います。
この挑戦が次の三分冊に活きていることを期待します。