登場人物として/自己言及

ここにはよく解らないことがよく解らないままに書き残してあって、

振り返ってみると「ああ、こんな馬鹿なことを考えていたんだな」と思ったりもする。

それはその瞬間に所有していた限定的な情報を基にした思考であるのだから、

将来的に誤りを指摘されることもあるだろう。

しかし、ここに書いてあるのは僕が把握しうる精一杯の事実の塊であり、

それはその瞬間の僕にとって真実であったのだと思う。

この限定的な知識でしか世界を把握できないというのは、

外界だけでなく内面もそうである。

つまり、僕はこの瞬間に自分はこうだと思って書いていても、

後から「いや、そーでもないかな?」と思うことがしばしばある。

キャラクタ的というか、僕は僕自身である物語を記しているようなものだ。

そしてその主役の性格をいろいろ想像してみながら

「これはどうだろう?こっちなら?」

と考えながら生きている。

だから、時にはついうっかり前後の関係性を失念して突拍子も無いキャラクタを見せてしまうこともある。

それは多くは寝起きだとか発熱している時だとかに起こることなんだけれども、

例えば電話を取るときに「ハイサイ!とりました~」と言ってしまったり、

観光地で「くるくる回ったほうが坂道早く下れるよ~」と言ってくるくるまわったり、

ブログで「自分がおかしいみたいに書いたり」って書くことはおかしい人だよな…と思ったり、

そういう形で自分をフレキシブルに可変させてしまう。

それでも、外見と名前が変わらないことで僕は他人から見えている自分自身の連続性を意識し、そして外交的には性格の連続性を保つことができている。

ブログでは、その連続性の維持のモチベーションが低いから、つい色々なキャラクタを試してしまう。

「試している」という意味ではそれは完全には僕ではなくて、あくまでも僕の一部分に過ぎないのだと思う。でも、部分でも部分なりに一貫した見解を持つのであればそれが一つの記事を表出するには十分だろう。

これは、小説家が複数の登場人物にそれぞれの立場を与え、そして自己主張させながらその作品全体としてのメッセージを定めていく作業と似ていると思う。

ってか、そういうことがしたくて小説家になりたいと思っているんだ。

つまり、趣味―もとい生態と実益の一致?ってやつ。