オマージュ或いはリメイク、また、パロディとパクリについて/思索

コンピュータ等の情報関連機器の進歩により、「著作権」という概念が揺らいでいます。

この記事は、この辺に関してまとまらないことが書いてあります。

著作権保護期間は延長すべきか 賛否めぐり議論白熱(2006年12月12日 16時18分 更新)ITmediaNEWS

(追記)

はてな匿名ダイアリー「うどんやそばは私にでも作れると松本零士先生は言うけれど」にて素敵なツッコミが…

それはうどんやそばが著作権フリーだからなんだよなぁ

至言!

「Winny裁判、罰金刑は重いか?軽いか?--自己矛盾を抱えた判決」佐々木俊尚@CNET JAPAN(2006/12/13 22:54)

Winny関連で見た記事では一番うまいことまとめている感じでした。

上の記事中で指摘されている金子氏の展望の全文↓

Winnyの将来展望について(2003/10/10)

ちょっと抜粋↓

――コンテンツ提供者はデジタル証券サーバからデジタル証券のIDを発行してもらう。コンテンツは利用者が自由にコピーしたり配布したりできるが、その際には必ずコンテンツのデジタル証券IDを表示する。そして素晴らしいコンテンツの作成者に対して支援・投資したり、コンテンツに対して何らかの影響力を及ぼしたいと考えたら、そのデジタル証券を購入して投資することもできる。ユーザーの間で、デジタル証券を売買することもできる。この仕組みによって、クリエーターの側は利益を確保できるし、ユーザーの側はたとえば無名のコンテンツに初期投資して、メジャーになったら証券市場で売却して利益を上げるといったことも可能になる。

これは結構だれでも考えるんではないかなぁと。

著作権法に関しての僕の考え↓

オマージュとリメイクは始めから原典となる作品への尊敬が含まれているし、著作権的にも事前の交渉があるであろうから(というよりも、オマージュ、リメイクである点が一種の“売り”でもあるだろうから)、訴訟沙汰になることはないだろう。それは自明といえるだろう。

そして僕は更に考えて、パロディとパクリについても訴訟沙汰になるべきではないと主張したい。

パロディについては、「それは原典を知らなければ笑えない作品である」という点が重要である。

つまり、原典の普及を前提とした作品なのであって、売れていない作品であれば始めから問題にはならない。

更に言えば、パロディは笑うためにあるため、作品中に「ああ、これはパロディなんだろうな」と原典が解らないまでもそう思わせる雰囲気がある(逆に言えばそういう雰囲気が無いパロディは良質のパロディとは言い難い)。その良質なパロディの雰囲気は「原典を知ってそのネタを笑いたい」と思わせるものであり、原典へ触れる機会に繋がる。これは元ネタの著作権者にとっても良い事ではなかろうか。

ただ、パロディには下品なものもある(下品な笑いを好む人間の何と多い事か!)。ネタにされて心が傷つく場合もあるだろう。そういう時は抗議するといい。「そういう下品なネタはやめてください」と。パロディ作家もそういう善意の要請には素直に従うべきである。原典あってのパロディなのだから原典への敬意を忘れてはいけない。事は、要請と受諾という手紙一つで済ませるべきである。

パクリについては、パロディとは大きく性格を異にするが、しかし、訴訟沙汰にするべきではない点では同様である。

しかし、パクリといってもその指摘される状況については様々である。

一部やら全体やら、性格がどうのとか、展開がどうのとか。マンガだとコマ割りがどうの、造形がどうの…。

主人公4人の性格設定が「三銃士」に似ているとか、舞台設定が「指輪物語」に似ているとか、「シャーロックホームズ」だとか…どれくらい遡るものかな?

ある作品は、それ以前の作品を下書きに作られる。過去の偉大なる作品に触れずして新たな時代の作家が生まれる事は無い。だから、全ての作家が何らかの作品の影響を受け、作品のそこかしこにその影響が読み取れてしかるべきだ。ただし、それは多くの異なる作品からの影響と作者自身の人生経験によって作者独自の姿にアレンジされているべきであり、それこそが個性となる。

その混成された個性からその構成素を読み取る事が難しいからこそ、批評家や研究家が飯を食っていけるのだ。

音楽であっても、売れる前に練習しただろう?何かをお手本に。

完全なオリジナルなど存在しない。

論議はそこから始まるべきだ。

もし、その構成素が素人にも読み取れるほど明らかな形で残っているのなら、作者はその経験や勉強の不足を批難されるべきである。そういう批難の形であれば正しい。そして、その批難は売れ行き不振として現れるべきである。

それでも売れるのであればその原因は、「先行していた作品が後発の作品に質として劣っている」か「購入者に先行作品の知識が無く、二番煎じだと認識されていない」のどちらか二つである。

前者であれば先行作品の作者は単純に己の力不足を恥じるべきである。

同じ素材を持ちながら、単純に表現力において敗れたのだから。表現者としてこれほどの痛恨事はないであろう。

逆を言うのならばデュマのお言葉を借りる事として、「その通り。だが見ろ、あいつの作品より俺の方が面白いだろう?」である。

自分の力量で敵わないからといって法律に頼るなど、表現者として恥ずべき白旗宣言ではなかろうか?

自分の力量に自信があるなら次を書け。それが出来なければ威厳を持って第一線を退くがいい。

もし、この論理が通用しないのであれば極端な話、「面白い展開は思いつけないがモノになりそうな設定ならたくさん抱えているので、適宜書き尽くしておいて後から書こうとするヤツらを網に引っ掛けるようにして儲けよう」なんて事が通用してしまう。そしてそれは創作界の死に繋がるだろう。

アイディアが良くてもツマンナイものはツマンナイのだから、ツマンナイ先行者は引っ込んで面白い作品を読ませて欲しいものだ。

ま、しかし、先行しただけの功はあるのだから、あまりパクリの程度が酷ければ幾ばくかの金は先行作者にも入っていいかもしれない。例えば、1%とか。ま、その辺は裁判で争うといい。ただ、良い作品が抹殺されるのは、いけない。

ま、現状ではパクった側の力量が低い場合が多いから、そもそも問題にするべきではないのでは?と思わなくも無い。(ただ、マンガの場合は絵柄を親しみやすく変えるだけでも売れ行きが変わるから厄介である。それこそ著作権者同士で話し合って取り分を決めるべきだろう)

後者も現象としてはかなり異なるが、根源は同一である。

つまり、「二番煎じだと思わせるほどに読者の中で押さえるべき作品として評価されていない」ということである。

裁判で「読んだはず」とか「聴いたはず」とは、部外者として聞くには恥ずかしすぎる自己陶酔だ。正直、勘弁して欲しい。作品のイメージが壊れる。

以上、もっと何か感ずることはあるけれどそれはまた後日……