“創”という字/daily
先日夢日記を書きながら思ったこと。
「見たものは簡単に色々と書けるのにな…」
そうなのである。
夢に見たものも物語であり、日常も物語である。
なのに、自分で創る物語は何故こうも書きづらいのか。
よく思い返してみた。
夢日記は、一通り見たものを取捨選択しながら書いている。
しかし、TP(今書いているヤツの符牒)は書くべき部分にアタリをつけて、狙って書いている。
結果、TPは全体での統一感を失ってしまっている。
自分の中でイメージが固まっていないからだと言えるかもしれないが、そうではなくて、しっかり全体を見てしまっていないからぶれてしまっているのかもしれない。
しっかり見ていないから、その不信感があるから、自分の言葉にしてしっかり出力できない。
それは、理解してないのも同じ。
僕は物事を理解したら、それが頭の中で動いて見えるものな。
数学も、物理も、生物も、地理も、歴史も頭の中で動くものな。
今感じているもどかしさは、場面の飛躍に合わせようとすると、物語のイメージがかすんでしまうというもの。
そうではなくて、書く必要がなくても場面を流して、そこから必要な場面だけをピックアップして書くということかもしれない。
撮ってしまってから、あとでハサミを入れる。
必要な場面だけ撮れる天才ではないし、経験も無いし、そういう地道な方が必要で、しかも、リテイクしないといけないだろうし、時間が掛かるな、初めてというのは。
論文もそうなんだよな。
背景が見えないから、つまり地面が見えないから、全体が描けないんだ。
こちらは、経験をある程度積んでるけど。
“創”という字は、“倉”と“刀”から成る。
蓄えて、切らないとダメなんだ。
(成語的には“倉”は音だけだと思うけど)