案の定の拡大/daily

昨日、「なんだかよくわらない教育/daily」で取り上げた世界史未履修問題案の定拡大の一途をたどっております。

えっと、僕の世代が受けた高等教育は学習指導要領で言えば1992年改定版であります。14年前ですね。

2002年版の改定でも地歴公民分野の取り扱いは同じなので、たっぷり14年分、このカリキュラムで高校生が卒業しています。

まさか1992年の改定直後からこんな裏カリキュラムを導入する度胸はないでしょうから、2年後、3年後から始まり、その後急速に広まったのでは無いかと推測します。

1992年に高校1年生、つまり16歳だった人は今30歳。

ある程度広まりきった時期として考えられるのは、1995年くらいでしょうか?だとしたら今その人たちは27歳…。

つまり、マスコミでバリバリこの問題を報道してる人たちとか、文部科学省でお役人やってる人たちのほとんどは、この実態を体感していないのです!

今の20代は戦々恐々としながら聞いてるみたいですけど、一部なら卒業資格取り消しもとか、そういうレベルの規模じゃないですよ、これは。

しかし、ここまでの広がりとはね…。

こうなると、学習指導要領の非現実性に対し、現場レベルで対応していたと取るべきでしょうね。

もうひとつの面は、「教科書の購入数で履修の有無をチェックしていた」という各県の県教委。高校を卒業する学生の質について、教育委員会は何の役にも立っていなかったのですね。ていうか、こんなザルな。

4年前に改定したばっかりですけど、やっぱ総合的に制度の根本から教育を考え直したほうがいいですよ。

ローマ人の物語』を読んでて思ったんですけど、成長期のローマ人はフィデス(信義)を軸にしながら、現実に機能している実態についてはそれを制度化し、現実に機能していても倫理に悖る場合はそれを倫理に沿った形にすこしアレンジして制度化しています。

この問題をこの先人たちの姿勢に習って考えるなら、世界史を教えないのは悪です。しかし、こうでもしなければ大学へ行くには時間数が足りないというのは現実。ならば、時間数を増やすか、内容を減らすか、それとも大学へのハードルを下げるか、のどれか。

時間数の削減と内容の削減はゆとり教育で批判された(しかし、この批判は僕は的外れだと思っている)。これ以上、時間も内容も減らせない(ただ、減らした所で塾がそれを補おうとするだろうから無意味だろうという予想に基づき、時間も内容も減らさない方向で正しいと思う)。

そういうわけで、大学のハードルを下げればよい。

卒業生の質は問わなくてもいい。

ただ、大学の単位習得のハードルを上げればいい。

背伸びして入学したら卒業もままならないようにしてしまえばいい。

大体、今の大学の授業退屈だし、それくらいの緊張感が欲しい。

転学もしやすいようにしたらいい…というか、少子化時代でそれは大学ごとの戦略の範疇に収まるだろう。つまり、非常に難易度の高い教育を少数精鋭で施すエリート大学か、難易度は低めながら多くの卒業生を出す普通大学か、というような。

大学は学生の質が下がると嫌がるかもしれないが、そもそも入った学生全部を卒業させようとするから質の低い生徒が入ると困るわけで、質の低い生徒には退場を言い渡せばいい。

今の大学は、退学者が多いと志願者が減るのではないかと勝手に考えているが、大学を受験するものの多くは大学に入ったら自分はちゃんと勉強できると思い込んでいる連中なのでそんな心配はそもそも無用だ。

教養課程の2年間くらいでじっくり絞り込めば、大学自身が望むレベルの学生がちゃんと残ってくれてるだろう。そしてそこからあぶれた学生を低ブランド大学がせっせと拾って行く…そういう形でいいんじゃないだろうか?

(いかん…言葉が緩んできた…)

小中では競争は無く、いろいろな才能を持った生徒がごっちゃになった状態で生活し、世間にはいろいろな人がいるということを学び、受容性を育てる。

高校では、入るときにちょっと粒を揃えて、ある程度均質な集団に教育を施せるようにする。このくらいから自意識がしっかりしだすし、そういう選抜にも堪えられるだろう。能力の差もはっきりしだすし、選抜するならこのくらいが適切。

大学では、上の講義の難易度を上げて専門教育の度合いを増す。また、入学時にある程度の職業的な希望を考えさせる。転学を簡単にすることが、職業適性からコースを修正する機会も得やすくしているし、一石二鳥だろう。ただ、その辺のコース変更に関して的確なアドバイスを送れる総合知を持った人材が張っている部署が必要だろう。

ただ、現状の大学職員はかなり忙しい。よって、講義の出口の難易度を上げるなんて不可能だろう。その点については、単位認定の適否を判断する機関を大学独自で設置したらいい(自分のとこの学生の質は自分たちで判定すること)。いい加減な講義をする教授はいい加減なテストをしていい加減な学生を輩出するので、テストは単位認定機構が作ればいい。しかも、毎年。つまり、講義をする教授とテストを作る教授を分ければいいのである。この講義をする教授とテストを作る教授がもし結託しやがったら、当然職務規定違反です。講義に向いていない教授がいたら、学内に設置した研究所等に引き取るなりなんなりしましょう。学部レベルではさっぱりな先生も、大学院レベルなら(教わる側のレベルが高いので)教えられる可能性があり、また、研究機関としての大学の質もブランドを保つには大事ですから、その辺も考えてのことです。

少子化大学全入時代が来るのだけど、大学の存在意義が“名前”にあって“中身”に無い以上は、受験戦争は続き、こういう未履修問題が発生しうる土壌であり続けるということ。

つまり高校の教育を変えるだけではだめで、大学教育も変えないといけない。

教育は入り口から出口までずっとつながっているのだから。