パブリック/社会

昭和天皇当時の宮内庁長官・富田氏の手記が発見され、その中に靖国神社A級戦犯合祀に関わって不快感を示す発言を昭和天皇がなされたという記述が見つかり、波紋が広がっています。

当該の記述を引用すると、

「私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、

 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが

 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と 松平は 平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている

 だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ」

である。

この手記における記述、および(僕が知るものは少ないのですが)戦後の言行を鑑みるに、昭和天皇昭和天皇自身が戦後の世界に自らの存在価値を見出す中で、平和国家の象徴という役割を真摯に受け止めていたことは疑い無い様に思います。それは、過半の政治的な判断と僅かながらの個人的判断の混成物、それがこの記述だったのでしょう。そう思います。

過去の記事でも随分と言及していますが、僕は、靖国参拝問題は、その実態が問題なのではなく表面的な体裁の問題なのだと考えています。

僕自身は、靖国神社が「近代以降の日本が関係した国内外の事変・戦争において、朝廷側及び日本政府側で戦役に付し、戦没した軍人・軍属等を、慰霊・顕彰・崇敬等の目的で祭神として祀る神社である。」(Wikipedia「靖国神社」)である以上、戦勝国による一方的な裁判であった極東国際軍事裁判の判決によって死亡したA級戦犯が祀られることに矛盾は無いと考えます。占領下で戦勝国に不公正な裁判で殺害されたのですから、単純化すれば捕虜になって殺害されたものとほとんど同義と見る事も出来ます。

これは、僕のA級戦犯合祀に関する宗教的な解釈です。

しかし、それと政治家が参拝してよいのかというのは、別の話です。

こちらは、政治的な解釈を用います。

天皇が日本国民を象徴する存在であるように、国会議員は日本国民の政治的意志を象徴します。

その政治的意思の塊が、靖国神社を参拝するという事は、日本国民全体が参拝する事と同義。

一部、「私人として参拝している」と主張する議員がいますが、いかなる人物であっても私人か公人であるかは当人の主張ではなく、そこが公的な場所であるか否かによって分けられます。神社は公的な場所です。よってそれは公的な参拝となります。参拝する意志は私的ですが、行動は公的と判断されます。

一方、問題となっているA級戦犯は、その判決が適当かどうかは僕はこの議論では問題としません。この参拝論議で重要視するのは、A級戦犯という言葉が持つパブリックイメージのみです。

何故か?確かに、歴史家にとって、法律家にとって、政治学者にとって、その判決の適否は問題となるでしょうが、一般人にとってはそれは高度すぎて問題とならないからです。他国の人にとっては、言わずもがな。

一般にA級戦犯のイメージは、「戦争を押し進めた指導者達」です。

実態はともかくとして、そんなイメージです。戦争被害を受けた国では特にそんなイメージが広がっているでしょう。

そんな者達を、国のリーダー達が尊崇する様を見て、戦争被害国の国民が不快感を覚えずにいられるでしょうか?否、不快に思って当然です。

政治家は、政治的に外交上の利益を重視して参拝の是非を判断しなければいけません。そして、現状は参拝は否とすべき状勢なのです。

島国日本として、経済的に中国、韓国は無視できない存在であり、北朝鮮を巡る状況を考慮しても、日中韓の協調は現時点で最も注意すべき外交課題です。

それを、私的な宗教的感情の表出として、公的行為である参拝を行い、それによって損ねる事は、とても一国の政治家として褒められる行為とは思えません。

本来的に宗教的感情は場所や時間を問わないものであるはず。

それを敢えて参拝するという事は、それが宗教的感情以上の公的な意味を持つという事を示します。

例えば、僕が神社に参拝すれば、僕が神社という宗教に対して敬意を表していることの公的な表明になります。公私の別は、場に属するのです。

ただし、公人としての重要度が低いので、その意志は問題となりません。

冒頭の昭和天皇も公人としての重要度は最上級。

そして、昭和天皇はその公的な意志の表明を意識し、参拝し無い事で公的な意志を表明したのです。

政治家は、私心を捨てねばなりません。

それに反して参拝する小泉氏は、やはり私心以上に公的に何らかの理由を持って参拝していると見るほか無いようですね。

支持母体か…。