脳裡の風景画/凹

気が塞ぐ。

ただ、気が塞いでいる。

憂鬱で中々目の前の作業に集中できない。

だが、去年の憂鬱な時と異なる部分を心の中に見つけている。

去年ならこういう憂鬱な時に心に浮かんでいた光景が浮かんでこない。

ただ、気が塞いで、みぞおちの少し上が鈍い苦しみを感じているだけなのだ。

それは年末年始に得た精神の変容の一つの結果だろうか?

去年の僕ならば困惑と不安で気が塞ぐと、決まって脳裡に一つの情景が思い浮かんでいた。それは殆んど自動的で、僕が意識して止められるものではなかった。というよりも、意識が鈍っている時に想起される情景だからそれで当然とも言えるのだが。

それは決まって森の中から始まっていたものだ。

もうそれを感じる事は無いのかも知れないから、僕は今、昔書き取ったものを少し改めて、ここに保管しておこうと思う。

=*==*==*==*==*==*==*==*==*==*==*==*==*==*==*==*==*==*==*==*==*=

僕は深い山奥へと歩いている。

その道は歩きなれた道で、幾たびも踏み固められて草が生えない。

空は曇っている。空気は重く、粘りつくようだ。

僕は足を引き摺るように真っ直ぐ坂道を登る。

程なく行き止まりに着き、そこに深い泉があるのを僕は見る。

そこに僕は毎日の記憶を放り込んでいっている。

その記憶は放り込む時には結晶である。楽しいもの、嬉しいものほど透明で、悲しいもの、憎らしいものほど濁った色をしている。

印象の弱い記憶は溶けやすく、時間の経過とともに泉の水と同化していく。一方、印象の強い記憶は溶けにくく、時間の経過に関わらず結晶となって泉の中に存在している。

その記憶の結晶は、楽しものほど、役に立つものほど軽く、水面近くに浮いていて見やすい。

逆に、悲しいものほど、忌まわしいほど重く、そこの方に沈んでいて普段は目に付かない。

印象が弱く水に溶けやすい記憶でも、それが悲しいものだと結晶の色に影響されて泉の水は濁る。

水が濁ると記憶が呼び出しにくくなる。必要な記憶がなかなか出てこない。

水に溶けた記憶も、いつかはそれに近い記憶と結びついて結晶化し、泉の水は時間と共にその透明度を回復する。そうやって人は忘れて、自分のセイジョウな状態を取り戻す。

思い出すという作業は、その泉から器を持って水と共に結晶を拾い出す作業だ。

透明な器に水と結晶を汲んで観察する。そういう作業。

激しく動揺すると泉全体が揺すぶられて、沈殿していた重たい記憶が巻き起こって水面近くまで浮き上がってくる。水中を乱舞する多くの記憶の結晶。泥水を汲んだようになかなかその内容物が観察できない。水が濁ると泉の中の記憶を探し出すのも、器に汲んだ後観察するのもどちらも難しくなってしまう。

イライラして僕はその器をぎりぎりと締め付ける。器はきりきりと音を立てて軋む。痛みが走る。はっとして僕は器を落とす。器は転がり、水が零れる。

しかしぼんやりとしてはいられない。器を拾ってまた濁った水を掬う。

掬った水に不純物が混じっているから、なかなかすんなりと思考を構築できない。

思考がなかなか進まないから心が次第に急いてくる。

その焦燥が彼を呼び覚ます。

彼は水底に棲む。憎悪とか自己嫌悪とか、嫌な記憶と感情の沈殿が凝り固まって生まれたのが彼。

彼は濁った水に生き、泉が濁ると水面に上がって来て、僕を水中に引きずり込もうとする。

僕はその誘いに一方で惹かれつつ、一方で反撥する。

反撥が心に兆した時、すっと彼らが側に立つ。

いつも僕は彼らの助けを得て辛うじて、僕の右手を掴むそいつの右手を振り払う。

両脇の彼らを見る。

右後ろにいるのは温和で感情的な部分の具現。一人称は「私」。主観的に、感情的に自分自身を肯定している第二者。僕を生かすために僕に生きるだけの価値があると勇気付ける役割だけを担っている。

左後ろにいるのは冷静で論理的な部分の具現。一人称は「僕」。客観的に、論理的に自分自身を観察している第三者。心理的な現象を第三者的に解釈し、合理的な解釈を加えることで僕の理性を保たせてくれている。

同じように水底に住む彼もまた、僕の一部なのだ。一人称は「俺」。怒りや悲しみ、恨み、憎しみ、そういう感情の塊。プライドが高く独善的で、破壊的な思考を生み出し、血や痛みを夢想し、僕が処理できずに溜め込んだ分の鬱屈を発散させるために居る。

彼らは確立した人格ではなく思考の傾向が擬人化されたものに過ぎない。言わば漫画の表現の中で、頭の中で天使の自分と悪魔の自分が言い争う様と同じ。それが善と悪の思考の傾向を擬人化したものに

過ぎないように、彼らも、合理主義の擬人、自己愛の擬人、そして享楽主義と自暴自棄の擬人…そう、仮想の存在に過ぎない。

平常時はそれらがバランス良く表出して、僕を形作っている。

時には、研究中は論理的思考が必要なので合理主義の思考を強める事もできる。

しかし、落ち込んでいる時はそのバランスが崩れてしまい、とりあえず自暴自棄な思考の傾向が出てきて、血やら痛みやらを求めてしまい、ナイーブな僕と相克しながら危険な方向に進みがち。そんな時に自己愛的思考が出てきて取り敢えず生きる事を説く。そんで合理主義が出てきて論理的に自殺や自傷行為の無意味を説く。

そうすると何とか動揺が落ち着いてきて、「取り敢えず生きるか」という気持ちが帰ってくる。

「役になりきる」というのに似ている。

僕が僕であることができないとき、自分以外の自分を想定して気を紛らわす。

対立し、拮抗する三者の思考が、問題を噛み砕いてくれる。

一つのアプローチでは解決できないものを複数のアプローチで解決する。

なかなか尋常ならざる機構―システムですが、それが僕をこれまで何とか生かしてきました。

=*==*==*==*==*==*==*==*==*==*==*==*==*==*==*==*==*==*==*==*==*=

今は、それは不要になったのだろう。残滓が感じられるのみとなっている。

今は確かに塞いでいるが、それでも進歩はしているということか。