寂しい人々
本当は人は誰もが孤独なのだ。
ただ、多くの人はそれに気がついていないだけで。[発言者不明]
先ずは、始まって一月と経たずに一週間を超える長期休暇を取ってしまうこの怠惰で中身の無いブログを訪問して下さった方々、どうも有り難う御座います。
あまつさえコメントまで残して頂いたお二方には、大感謝です。
「精々一日一人とかそういうもんだろ」と、高を括っていた私はそりゃあ、びっくりしました。
そして、反省しました。もっとちゃんと書かんといかんな、と。
根が寂しがり家なのでどうもこういうちょっとした事に感動して調子に乗ってしまう所が有ります。
しかし、書く気が増したのは良い事なので、素直に乗って行く事にしますか。
さて、寂しがり屋という話が出ましたが、考えるに全ての人は須らく寂しがり屋ではないでしょうか。
人は誰しも我が身の孤独に気が付いた時、その時に寂しいと感じるのでしょう。
そして、寂しい時に誰かに側にいて欲しいと思う、寂しがり屋になる、それは当然の事と思います。
人がまだ人で無かった時代、原人や猿人よりももっと前から、一個体では弱かった我々の先祖は常に近しい誰かと共に助け合いながら生きて、生き残ってきました。
今更、一人で生きていけるヒトなどそうざらに居る者ではありません。
しかし、一方で世の中には孤独を好む人もいます。
でもそれはきっと恐れているのだと思います。
物理的には孤独ではないのに、精神的には孤独に陥ってしまって、その強烈な対比に打ちのめされてしまうのを。
或いは、一度手に入れて、そしてまた失ってしまう事を。
孤独を好む人は確かに何かを恐れています。
その人にとってそれは寂しさに耐える事よりも恐ろしくて、悲しいことなのでしょう。
たとえ人と人との間にあってこそ得られる、全ての喜びを捨て去ったとしても。
人の輪から離れて寂しさに耐える孤独な人より、人と人の間にあって必死に何かを求めている寂しがり屋の方が人間として正しい姿であり、より強い者であると思います。
そして、それを根っこにしながら土の下に隠して、立派に立っている気になっている僕は、弱い人間なのだ、と思ったりしています。