ライフ・ワーク・バランス/侏儒雑観

◆就職活動において、体育会系が重宝される理由

「一週間が同じ予定で埋まることに慣れている」

寡聞だけどこういう理由を述べる所は今の所見たことがないかな。

俺はダメだなー。

というか、バスケットボール部に所属していた時も思っていたけど、俺の根っこはぜんぜん部活になかった。

空想にあったな。それは自分の領域で、楽しい。

体育会系というのは、結局、何らかのスポーツで日常が満たされている状態に安堵できる人たちだ。

それが、卒業後にスポーツから引き離された後、仕事をその代わりのものにできたとするならば、仕事に没入できる。

確かに、それは有利だ。

マッチョ、とも言える。

でも、それはもうひとつは、仕事以外はあまり顧みないということにつながりかねない。

社会を安定させるためには、バランスが必要だと思う。

◆「ワーク・ライフ・バランス」とは

ワーク・ライフ・バランスが論じられる時、それは「ワークを減らすこと」に焦点を当てて行われることが多く、「ライフ」が何を意味するかが曖昧なままであることが多い。

それは、暗黙的に「家庭」を意味することが多く、そしてそれは「夫または妻」や「子供」を「家庭」として想定している。

しかし、「ライフ」の意味は本来もっと広いものだ。

妊娠期間から、出産を経て、養育されて幼児期を過ごし、少年、青年時代に教育と思春期を経験する。就職し、仕事をし、家庭を築き、社会に対する役割を果たしてゆき、最後は衰えて介護を受けて、終末期医療を経て、死を得る。

これが「ライフ」であろう。

今、「ワーク・ライフ・バランス」という語で論じようとしている視野は狭すぎる。

このすべてのライフステージをないがしろにして、ワークに偏り切った状態からバランスを取り戻す。「ワーク・ライフ・バランス」への取り組みはそういうものであるべきだ。

◆余暇活動の価値とは

人は常に最高の自己実現を体験しようとする。つまり、いつだって満足していたい。

だから、会社から離れてやる行動は本人の価値観の中で常に最良であり、その資質が生み出すところの最大の結果を常に社会に還元していると言える。

場合に依っては、それが他者から見て価値がなかったり、あるいは社会に対する害悪だったと判ぜられても、それは当人にとっては常に最良の結果なのだ。つまり、社会全体にとっては、個人がどのような場所で価値を生み出そうとも、社会にとっての価値は等価なのである。

しかし、社会の部分である会社にとっては、会社の外部が存在する以上は回収できる利益を失っていると解釈できなくはない。ここに、バランスが崩れる余地がある。会社は部分であるから、個人についても部分で捉えようとする。特に、会社と個人の一対一の関係を重視しがちである。そこに家庭全体や社会全体という視点は入り込みにくい。

20世紀までは。

しかし、ここ数年、21世紀に入ってCSRの概念は発展し、おそらく「ノーブレス・オブリージュ」を過去のものにするレベルにまで昇華しつつある。来年の秋に発効される予定のCSRの国際基準ISO26000は、その着想として、「コーポレート・ソーシャル・レスポンシビリティー」の枠を取り払い、あらゆる組織に適用される「ソーシャル・レスポンシビリティー」となる予定とのことである。

この発想は、よく「ワーク・ライフ・バランス」と親和すると思う。

そして、冒頭の体育会系はスポーツクラブに参加すればいい。スポーツもまた、人生の一部なのだから。

そして、大人がスポーツをやることでスポーツ産業が潤う。

また、大人数で食事をする機会が増えるから、外食産業が潤う。

余暇活動が社会にとって利益を産むというのは、そういう多様な経済活動につながるという意味で、柔軟な消費社会を形成し、経済の安定に良い効果をもたらすだろう。

もちろんそれは、「余暇ではなく仕事をしたい」という気持ちを妨げるものではない。残業つまり規定時間内に能力不足で終えられなかった残りの業務としてではなく、規定時間外労働としてその気持から生ずる業務を評価し、この貴重な企業のために働こうとする人材に対して、その貴重さに相応する比率の手当でもって報いるように法律に定めるべきなだ。

人生と直結した仕事を「ライフワーク」という、しかし、和やかに生きることそのものを人生の主題として自分の行動原理の中心に据えることができたなら、その時、その人の行動は行住坐臥が「ライフワーク」となるだろう。

「ワーク・ライフ・バランス」と「ライフワーク・バランス」とが、違和感なく同一のものと感じられるようになること、それが人の目標だと思う。