村上龍『69 - sixty nine -』集英社文庫/読書感想

バカな小説である。

例えば、童貞でセックスに興味があるのにキスのタイミングを逃すようなそんな甘酸っぱいバカの話。

団塊世代のイカした青春ってこんな感じだったんだろう、と教えてくれる小説。

(ま、村上龍は1951年生まれだそうなので、団塊の世代から少し遅れていて、それで学生運動の真っ只中に高校生という中途半端な位置取りをしていたからこそ、こういう高圧下で高温で未発火みたいな状態だったのだろうけど)

あー、すがすがしいくらいバカ。

いちいちどーでもいいところが三倍フォントが使ってあって、それがまたいいかんじにバカ。

いや、実際主人公はそうバカでもないわけですよ。

バカっていっても、それは頭が悪いとかそういう意味ではなくて、

カッコ良さそうなことをしてメスの気が引ければそれでいいというような、

動物的単純さで行動するという意味での馬鹿。

つまり、

盛って鼻息荒い種馬や

せんべいに群がる鹿のような、

そんな感じの、馬鹿。

でも、そこは人間だから、馬・鹿のようにストレートにがっつくんじゃなくて、

バリケード封鎖で世情に敏感な所を見せようとか、

力いっぱい大人に対して大人の振りして見せるとか、

そういうバカ。

バカって書きまくってやろうと思ったけど飽きた。普通に書く。

これって、団塊世代がいろいろ理屈をこねつつも結局は数の論理で圧力を見せたのに対し、

大人たちが団塊世代が否定する現実的な社会的権力そのものによって対抗して真正面からぶつかった時代のもので、それは、論理に多少の瑕疵があろうともその数的優位によって無視できなかったものだと思うのです。

さて、翻って僕らの世代はというと、その団塊世代がその権力側に座っていて、僕らの論理に対して数でも実績でも上回っているわけです。

つまり、まず数ですら負けている。

団塊世代は数で圧しても負けたのに、僕らは数でも負けていて、団塊世代以上に苦しい戦いをしているわけです。

そして、同じ世代の中でも勝ち組とか負け組とか言って分裂していて、勝者が敗者を支配しようとしている。

そしてむしろクリークだ!とかのたまう輩が居る。

これが団塊世代の闘争の延長線上にあると思うと、何が虚しくないって言えるでしょうか?

でもだからこそ逆に僕らの世代はこの馬鹿さとエロ根性を見習わなきゃいかんのですよね。

それにしても日本語の「69」は素晴らしい数字だよね。

ロックと掛かるエロイ言葉とか、退廃的で。

この言い回しが生まれた国にはない語呂ってのが言語の奇跡だね。

あー、エロいなこの小説は。

で、70年には無事卒業できたのですか?それだけが気になります。