農村の安定性と都市の柔軟性に関するメモ/種々雑感

以下、メモ。

戦後、戦地から帰還した兵士によって爆発的なベビーブームがあった。

当たり前ながら、農村が必要とする労働力は農地の広さと農業にかかる手間に依存する。

化学肥料や殺虫剤、耕作機械の導入により、農村が必要とする労働力は減少した。

結果として、子供が全員都会へ出て行ってしまっても、親夫婦だけで農村を維持したり、

あるいは、会社勤めをしながら兼業農家を経営することが可能になった。

一方、日本全体で人口が増加することは予測されていたが、その配分についてはその時点での人口に応じた増加分の配分が行われた。

つまり、都市も農村もその人口に応じた将来人口を配分された。

農村の事情としては、農地が必要とする労働力は増加どころか減少する可能性すらある。

林業は外国産木材との競争に敗れて衰退。

地方自治体は将来人口に応じた労働を生み出すために農業からの転換を考えるようになる。

また、食生活の変化、食料自由化の流れなどもあって、積極的でないながら農地が他の用途に転用されるようになった。

農家は、高付加価値化戦略と低コスト戦略の二者択一を迫られ、専門的知識がなく、また前者がブランドを確立したものが先勝する世界であることから、後者でジリ貧が続く。

農地転用を図るも、産業化は難しく、宅地化など不動産としての利用が主体となる。

雇用は増加しないまま、人口が増加するので、都市部へと人口が流出する。

よって、都市部では過剰な人口増とそれを受け止めるための市街地の拡大が、

農村部では人口の横ばいと若い世代の流出による高齢化が進んだ。

今後、高齢化によって世代交代への圧力が高まる。

しかし、現行制度は参入障壁と言えるレベルであり、かつ、一人当たりで管理する農地の広さを広げなければ合理化が図れない状況。その解法は会社化だろう。農地を会社管理とし、社員が管理することで参入障壁を低くする。従事者の平均年齢に見通しをつけやすくなり、社会基盤への投資が計画的に行えるようになる。地域ブランドの構築が容易。

後発的な地域ブランドは最終的には地産地消と結びつくが、それは食糧生産と人口の均衡点がある程度見えてきてからになるだろう。まだ少し早い。先発的な地域ブランドはさらに高付加価値のものとなる。その区別は固定化する。

食糧生産と人口の均衡点は、現時点では食糧生産過多かつ偏在の状態から、資源高騰を背景として偏在を解消する方向にある。偏在の度合いで見れば日本はこれまで過多による食料安の状況にあったので、食料が高くなり、農業の対価が上がるが農地が必要とする労働力は減る可能性はあるが増加する可能性はない。よって、簡単に不足するとは思えず、一人当たりの収入は複数の意味で相対的に増加するだろう。

ただし、山村まで回復するとも思えない。

労働と対価の問題だから。

機械化が難しい山村から衰退していっている現在の流れは止まりにくいだろう。

林業では事情がことなるからだ。

林業の問題はむしろ、熱帯地域の環境問題と隣接している。

日本はこれから人口減の時代を迎える。

この人口減の時代の長さは、知財立国の成否にかかる。

科学による農業生産力の上昇により、農地が必要とする以上の人間が生存できるようになっている。

しかし、農村、漁村が必要とする労働力はその自然的な資源量に対応しており、

それ以上の人口は都市的活動によってその有り余る余暇を経済化することで生存に価値を見出す。

有史以来、都市的活動は一貫して複雑さを増し、その複雑さによる工程の一つ一つに価値を見出して膨張している。そうして現在の膨大な人口は支えられている。

情報化によって技術の移転が起こりやすい現在では、技術を抱え込むだけでは経営的勝利を維持することは難しく、絶えざる技術開発が必要である。

つまり、国の技術力の高峰の高さが裾野の広さを保障する。

現在、日本の“技術立国”は、狭い分野での極めて鋭い「とんがった」技術によるところが大きく、広い裾野を持ちうる応用性の高い分野ではない。あるいは、裾野を広げきれていない。

この技術力、生産性が食糧と資源の相場に対して強くなるまでは、人口減はとまらないだろう。

農村の人口減は食料安と効率化のためであるが、都市の人口減は国際的競争力の減退による生活必需品の買い負けのために起こると見ていいだろう。

いずれにせよ、人口減が起きるのでシティはコンパクトになる。

コンパクトシティが必要なのではなく、コンパクトになる。

それは、コンパクトにして効率化を図り、生産性を高める必要があるということであって、都市と農村のバランスを保ち、農業生産性と都市の生産性を両立することが21世紀の国家像として重要だからである。

東京一極集中は、このような人口増減よりもこの国が中央集権であるために、その集積された金の流れによって他地域より抜きん出、人間を引き寄せていることが原因だろう。よって、地方分権が進まない限りは解消しないだろう。結果、コンパクトシティは志向されるものの実現しにくいだろう。

都市的活動の複雑さには文化的活動も含まれており、文化面での東京一極集中は特にメディアを通じて地方都市の文化的購買力を惹きつけている。このために、地方都市の都市的活動には厚みが薄く、活気が伴いにくくなる。

文化活動による都市的経済活動の持続性については各地の地域資源を活かした町おこしを参照。このように都市的活動に厚みを持つことは地域の活性に正の影響を与える。しかし、観光客依存の現状には、その文化的特異性を維持する上で地域外資本の参入という大敵が存在することは、注意が必要となる。これは地方都市の多くがそうであるように、支店経済的「吸い上げ→撤退」という路線への警戒が必要となる。

むしろ地方都市でこそコンパクトシティの方法論は実践を伴って進歩する余地がある。

しかし、一方で中央集権からの用途を限定した集中的資本の投下は続くだろうから、そのあたりの感覚の差異について摩擦はつづくかもしれない。

都市計画の50年間は交通の整理に重点があった。

……と思う。

増加する自動車交通の消化のための都市人口の効率的配置と、過密による住環境の悪化を抑止するという意味で。

このような意味の交通問題が残されている地域は少なくなりつつある。

同じ道路の問題でも、維持管理の問題がウェイトを増していくだろう。

一方で、都市的問題は都市的活動の効率化の問題へとシフトしていく。

それは一種文化的で、なんか、たぶん、政治的だ。

……と、いうよりも、日本語の「政治的」の意味に不足する部分を補うために別の語をさらに用いるなら、経営的な思考が必要となってくる。つまり、ひとつの都市圏の経済活動の総体的な経営判断によって、部分を担う個々の事業者間の利害関係を調整する必要があるということ。

以上、メモ終わり。