常識/侏儒雑感
眠い。
常識というのは、世間に流布するものであり、世間の中で常に認識されているから常識とされるのである。
認識とは、それに接していることである。
よって、常識とは常に世間の人々が接する事実であるはずである。
ここでいう常識は、個人の主観的な観測ではなく、複数の人間から成る共同体の中で共有される認識である。
よって、常識は常に共同体の構成員の間で確認され続けなければならない。
ということは、常識を形成するために共同体の構成員は常に常識とは何かについて相互にコミュニケーションを成さなければならない。
常識の形成には相互コミュニケーションが必要である。
マスコミュニケーションは報道関係者という共同体の一つの内部組織からの意見表明にすぎず、双方向性が存在しない。
マスコミの弁は必ずしも常識を形成しない。
一方、共同体の大多数を占める市民の声はそれに応えた何かを形成することができていない。
共同体はその機動性の面から様々な更なる内部構造を形成せざるを得ない。
そして、その内部構造の中での常識―企業風土やお役所体質などを醸成する。
そして、その異なる内部構造同士での交流は限りなく少なく、また、認識を戦わせて常識を変容させることを避けている。
我々はコミュニケーションを避けることで常識を失っていっている。
過去には、近所付き合いの中で各々の認識について擦り合わせる機会はより多かった。
しかし、それは余暇を削って仕事を増やす中で減少して行った。
ただ、それは直截の原因ではなくて、認識を戦わせて修正する(それは修正する側に敗北を思わせる)ストレスを受け止める余裕を今の社会が持っていないということだろう。
大人も、子供も、常識を醸成する余力を失っている。
常識は、絶対に必要なものだ。
常識は言い換えれば市民の共通認識であり、倫理であり、指針である。
政治家はそれを汲み取って政策を立案する存在であり、共通認識を必要とする職業だ。
政治家の資質と、市民の資質と、双方が揃わねばならない。
乱世を前に人心は麻の如く乱れると言う。
世は乱れ始めているだろうか?
ああ、眠い。