疲れて眠る/うらぶろぐ

昨日は雨に降られたので疲れていた。

とっとと風呂に入って温まって、1時間ほど布団の中で転々としてから眠りに入った。

疲れている時、眠たい時に無理はしない。

無理が必要な時はするけれど、大抵はしない。

以下、なんとなく屑篭に捨てておくような記事。

昔から、なんとなく小説家になったほうがいいと思っていた要因に空想癖も挙げられる。

何となく物語を考えるだけでなく、人物を創造し、それに喋らせる空想。それをほとんど呼吸に近いくらい当たり前にやっていた。

ただ、呼吸だからこそ意識しては止められない。人間が自分で呼吸を止めて死ぬことが出来ないように、僕は始まった空想を自分で止めることができない。ただ、その空想を客観視して現実から弁別し、思考エリアでの優先度を下げて意識の底流に流すだけだ。

小中高と、通学中も授業中もテスト中も物語を考えていた。

形にすることは少なかった。自分で自分が書いた文章を見て語彙の少なさに呆れてストレスを感じることの方が多かったから。

それよりも勉強の方が良く出来たし、きっとこの空想を意識の底流で流しながら上層で仕事をやって適宜生きていくのだろうと思っていた。

それは研究室に配属されてからは大きく変わった。

とにかく、全力でついていくのがやっとで、それで疲れ切ってしまうことを経験した。

そうする中で発見した。

疲れている時、その客観視が弱る。そして、優先度調整機能も低下する。疲れている時ほど、埒外の空想は止まらなくなる。

徹夜作業終了後、本当につかれきっている時、普段は抑制している思考が止まらなくなる。

勝手に空想の産物が喋りだす。あまり同時に喋るものだからわんわんと反響する。「…ちょーむかつくー…ワシの若い頃は…この三次元空間における絶対的な…ばーかばーか…」

こめかみを押さえて目を瞑って念じる。「これは、頭の中でのできごと」

そうやって眠り込むまでそれらを押さえ込む。

そうして眠った日には、必ず夢を見る。

何となく、高校時代に感じていた危機感が具体化した感じだった。

僕は高校時代に多重人格とか異常心理についてすごく勉強していた。

サカキバラ事件という時代背景もあったけど、それ以上に自分の危うさを感じていて、それに対して予防線を張ったような気がする。それを事前に知っておくこと―既知の内ものとすることで、自分を意図的にコントロールする。知らないことに襲われるのが一番危険だから、そうならないように知識を得ておく。予防接種みたいなものだ。

ワクチン―生きる方向への自己暗示―は中学時代から持っていたから、予防に着手したわけだ。そのワクチンすらも尋常ではないのは何となくわかっていたから。

そういう普通でない自分を知っていたから、逆に平凡であろうとしたし、そしてそれを吐き出すのが怖かったからストレスを避け、簡単に女性を好きになってそれに突進することも無かった。いや、諦めていた、が正確かもしれない。でも、自分が諦めていることにも鈍感になっていたのかもしれない。当たり障りのない、ダメージが少ない、皮一枚分の安全圏。切られてもそれは皮で、本体には傷をつけられない。そして、それが皮だと公言することで実体を更に隠す。本心などどこにもないように。

そんな僕から見たらみんなとても弱くて傷つきやすいように見えた。当たり前のことに若者らしく傷ついていた。誰かに助けてもらいたがっているように見えた。そして僕は彼ら以上に弱くて何も出来なくて、表面的な助言は出来ても本質的な助けにはならないと感じていた。

それに、小説家になりたい、なったほうがいいという直感が、僕は身近な人は幸せにできまいという思考に繋がっていた。

でも、いつか強くなりたいと思っていた。

今でもつかれきってしまうことは怖い。

今なら、だから、疲れ切ってしまう前に休む時間を作る。

そして休む。

小説家になった方が良い、ではなくて、いつか小説家になることに決めた。

そしてその決心を元手に、いろいろなストレスを生む仕事を我慢する精神力を得た。

多様な観点を許容する意識と空想癖は、小説を書く上でプラスに生きるだろう。

感性と理性の調子の循環も捉えつつある。

僕は僕をコントロールしつつある。

すべてをいつか成し遂げてみせる。

このブログも、実はそういうコントロールの一環でありつつ、貯金であると思っている。

2005年6月は、国家公務員試験におっこちてしばらく悩んだ挙句、小説家になるという志を固めなければこのまま転がり落ちてしまうと判断した時期。そして、文章特訓の場―通常日記、論説、夢日記であらゆる文体を特訓できるのだ―としてブログが有効であると判断したからだ。

それから少しずつ意識を固めていって、その年の12月に友人に告白して、今年の7月に公言し始めた。それから半年くらいはリハビリ期間だったかな…いろいろ変化しすぎたから。そんで、今は新しく社会的な地位を固めてるところ。つまるところ博士課程を頑張らなきゃ、って話。

小説は理性と感性の連動が必要な作業だから、エネルギーが余ってるときにちくちくやっている感じかな。

実は、そういうステップを踏んでいるのだ。

何となくできることをやるばかりではない。

20年ぶりぐらいに心の底から強気な今。

プロジェクトは密かに進行している……

(…で、こっちの方が重要なので別に恋愛要素は後回しでも後悔は無いのさ。こっちの瀬戸際がどうにかなんないと、そっちもどうにもならないから(…というのはこっちの都合であって、向こうは待った無しなのだかけれど、「準備万端で颯爽と現れる」というくその役にも立たない美学を持っているのだから手に負えない)、ほっといてるのだ。)

…っていう全てをも、自己欺瞞に感じるときもあるけれど、でも、ネガティブな時間よりもポジティブな時間が長くなったのは確かです。

つづく