水村美苗『続 明暗』ちくま文庫/読書感想

『明暗』を読んだのは、2008年のことなのか……そりゃ忘れてるわ。

「夏目漱石『明暗』新潮文庫/読書感想」

そういうわけで、再読して、さらにこの『続 明暗』を読んだわけですが、正直読む前は水村氏の筆力を疑ってました。でも、すごいね。もちろん、漢文や英文の素養、禅や仏教哲学に関する知識において漱石に及ぶべくもありませんが、文体の醸し出す雰囲気はかなり近い。驚きました。どんだけ漱石好きなんだこの人。

さて、その結末についてですが、筆者は新潮文庫版のあとがきに、

「私は独創的な結末を書こうとしたわけではない」

「もっともあたりまえな方向に物語をもって行ったつもりであった」

「『明暗』がその結末をどの方向にももっていける小説だとは思わない」

……と、書いている。

そうだなぁ……。たしかに、こういう方向が当たり前だろうなぁ、とは思う。ただ、筆者自身が述べているとおり、漱石のような「破綻」を真似しなかったことは、『明暗』の当たり前の方向から得られる「結末」を無視していると言えるだろう。これは避けようがない批判点と思う。

漱石だったら確実に津田を「破綻」させていただろう。それは「破滅」ではなくて「破綻」である。

お延が、「門」となることは想像にかたくない。そして、津田が「門」に阻まれる。それが、この『明暗』以前の漱石の常套である。

だが、漱石が常套を脱ぎ捨てる可能性もあったのだし、結末は不明である。

漱石らしいとか、らしくないとかは、最早漱石がこれを未完のまま卒えてしまった時に、霧消してしまったのだ。

そして、この『続 明暗』はその漱石の不明の結末とは独立して、全く一個の作品として良質である。

お延の最後の結論は、それ自身しっかりと完結しており、首肯できる。

思えば、この冊子の中程から、描写は沈黙するお延へとシフトしており、津田の行動は既定の物語の当たり前として手順を消化していっているに過ぎない。

それは、女性的共感から筆者が選んだのかもしれない。だが、その選択で良かったと思う。

漱石なら、このお延の決着に対して、津田をどう相対させるだろうか?

そういう空想が過ぎった。

『情熱と冷静のあいだ』という小説を思い出した。あれもやっぱり女性の強がり(強さ)を追う男性という結末になったようなものだけど、この水村氏のレスポンスに対して、どのような結末を用意するかな?と興味を覚えた。

あっさりと死ぬ可能性はある。だが……『カラマーゾフ』を意識するのならば、きちんと告発がなされるべきでは……あれ?記憶が不確かだな。むう……。

やはり津田は、指弾されるのだとは思うが、津田の「破綻」は開き直りそうな気がするんだよな。

いや、そもそも「明暗」というタイトルを思った時に、誰が「明」であり、誰が「暗」なのか?

そう思ったときに、お延が明らかなれば、津田は暗に落ちねばなるまい。

……やはりまだ物語は終っていないな。津田がどうなるのか?それが放り出されている。

あれ?これって「破綻」じゃね?