高見広春『バトル・ロワイアル』幻冬舎文庫
読み終わりました。
解説の池上冬樹氏の称賛は褒めすぎかな、と思うけれど、思っていたよりも良い作品だった。
少なくとも「キワモノ」というのはためらわれるレベル。
青春小説としては申し分ないと思う。
ただ、僕は映画化した直後に友人と映画を観ているので素直に驚けなかったことで割り引かれている可能性を考慮する必要はあると思う。
僕は、自分でも遺憾なのだけど、友情ってのが絡むとつい涙もろくなってしまいがちで、あの映画で泣いてしまったのが今での恥ずかしいと思ってしまうところがある。
映画よりは小説の方が面白い。
特に、野村弘樹はいいね。ロマンがあって。
映画が主人公を軸にしたストーリーを消化するのに精一杯だった一方で、小説はクラスメイトひとりひとりを描けている分、ストーリーに厚みがある。
人を殺さなければならないような極限状態にあって、その人物の本質が出る、というのはやはり面白さを感じさせる。
しかし、やはりパルプフィクションの域を、エンターテイメントの域を出られないのは、各種設定のせいだろうな。
特に、帝国主義が貫かれているという点をベースにした、プログラムの存在の設定だ。
このプログラムは生徒を殺し合いに仕向ける意図を持っている。その強制力の下では生存欲求など各種欲望の残酷なまでの発露はその色を弱めてしまっていないだろうか?例えば、『蝿の王』や漫画『ドラゴンヘッド』の冒頭では、その発露が自然発生的であるがためにより人間の本質的残忍性が際立っていたように思う。
いや、それは逆に言えば、殺意の強要によって人間の理性を際立たせるのに役立ったかもしれない。うん、どうだろう?
まあ、なんかこういう強権的な政府の想定というのは、『リアル鬼ごっこ』でもそうなのだけれど、異世界の物語だとしてもなかなか受け入れがたいものがある。特に、組織に組み込まれた大人になってしまうと、組織がそんなに悪いものではないと知ってしまうから。
そう、子供にとっては、強制する存在は確かにある。「勉強しないと将来困るよ」というのは「クラスメイトを蹴落としていかないと今の生の楽しさはなくなってしまうよ」と言うのにほぼ等しいだろう。そういう中学生的感性の発想。
そこが、評価する層が限定されるところではないかな。
あと、アメリカの強さの本質は自由じゃないと思う。自由と表現されているけど、中学生が思っているような自由じゃない。その辺がなんか違和感がある。
結果として、『バトルロワイアル』はたぶん『リアル鬼ごっこ』などの登場に影響したと思うけれど、その中でもバトロワは白眉だろうな。ん、いやまあ灰眉ってところか。
本筋と関係ないところでちょっと気になるのは、何故日本刀が登場しなかったのか?作者は銃オタってわけでもなさそうだし、軍国主義が続いていたら日本刀信仰もまだまだありそうなもんだけど。フォークを持たされるのとはまた違ったぬか喜び的落胆があって面白いし、きれいに振るうのは難しいけどやっぱり実践では役に立つという意外性が出てくると思うんだけど……まあ、単にディバッグに入れたらはみ出るから、ってとこだろうけどね。
あとは、首輪の構造が気になるかな。この作品における不思議装置。
俺が主催側だったら、死亡したら委細かまわず爆発する仕掛けにするけどな。逃走防止にかなり役立つし、死んだふりの価値が増すし。まあ、それじゃあ物語が成立しないんだけどさ。
それからもう一つ、架空戦記もけっこうあると思うけど、どうして大抵が太平洋戦争での敗北を回避するんだろうな?
日露戦争の敗北とかも歴史のIFとしては面白いと思うんだけど。
ま、それはどうでもいいか。
うー、やばい眠くて感想適当。なんか思い出したら追加する。
(2009.10.12追記)
思い出した。
もし、俺がこういう国に生まれていたとしたら。
仮定。
プロジェクトが開始したら、俺は乗るだろう。
15歳の俺は、他者に絶望しつつ、可能性を信じたいと思うタイプ。
殺し合いがスタートした時点で、他者を無価値と見なして自分を生かすことを最善とするだろう。
そして戦略的に逃げ回り、最後の一人を殺すことを決意する。
そいつは人を殺すことで生き残ってきた人間で、そいつを殺すことはまだ許されうる行為だろう。
そう、プロジェクトの存在を知った時点で考える。
確かに、可能性は低いかもしれない。
しかし、絶望する人は「明日隕石が落ちて人類が滅亡しないかな」と思うもの。
僕はよくそういうことを考えていた。
あるいは、「人知れず人を殺す力を得て、あいつらみんな死なないかな」とか、「みんなが死に瀕して俺だけがそれを救える状況にならないかな」とか。
脳に正体不明の原因がなくても残酷になれる人間は存在する。
それが成功するかどうかは別として。
そういう視点が欠けている。
あー、嫌な奴だな俺は。