クラウド/種々雑感

景気が底を打ちました。

「実感なき」って枕詞がついているけど、実際、あるはずがない。

景気の底なんだから不景気真っ只中で当然じゃないか、表現として。

景気が底を打った状態というのは、たぶん雇用と在庫の調整が一服して安定した生産ラインを取り戻し始めるところに出るだろう。それはつまり、景気の底に現れる実感は、今雇用されている人はとりあえず今の会社をクビになる可能性はなくなったかなー、とか、発注側がそろそろ発注を増やそうかな、とか考える、そういうものだろう。

まだまだこれから。

しかし、昔のようではない。

まあ、昔と同じ時期なんて一度も来たことがなく、僕らは同じ暮らしを続けることはできない。

それに知らないふりをして永遠を信じて留まりたがるから変わる者たちに置いていかれる。

それにしても、昔のように消費をしまくる時代はこない。

土地があって、水があって、地力がある、と食糧生産が可能だ。

そこでは、人口を増やすことと生産を増やすこととを直感的に連想できる。

しかし、生む分にはかなり限界に近い数を生んでも環境がそれを許さない。生存数を増やすには(社会)環境を改善する必要がある。

たとえば、隣村を襲撃した方が簡単に食料を得られるという発想が許されれば、二つの村を合わせて考えた効率がひどいものであっても、その発想は実行される。それを防ぐには二つの村を支配者が結合する必要がある。その支配者が(以下略)…そして現状の社会制度へ至る。

これらの社会制度の多くの部分で子供は、自分が働けなくなった老後の生活を支えてくれる繋がりという宝だった。(ある水準以下で働けなくなってから以降を老後と定義すべきだ)しかし、社会システムが成熟する中で、老後の生活を金で買うという意識が広がった。それは、金持ちに特異的であったはずなのに。

それは、先進国でそうなるような底上げが起きたということだけれど、その転換点が1950年から1960年半ばというのは、よくわからん。よくわからんが、そこで変曲して、ずるずると少子化へ進むその変化は微小で、おそらく、若い時期をゆったりと遅らせていく美容の意識の問題が大きいのかもしれない。とにかく、若くあろうとする意識が、若い頃が短いという意識を押しやって、出産時期を遅らせていく、そのための技術が進歩する。女性の社会進出は、技術が家計を握る主婦を狙い始めたときに始まったのだろうし、そう考えると時期が合う。家事を楽にすることで金を家庭から吸い出すと同時に、金で払って得た時間を主婦が自分たちのためにつかうようになった。そして美容と仕事を含む自己実現が志向されて、自己を確保して独立する女性が増え、出産時期が遅れた。

同時に、男女ともに独りで生きることができるような経済社会が成立する。男女が別のほうが、家庭が別々の方が、扇風機がいくつも必要で、需要が増す。金が社会を回るから、扇風機がいくつも買える。

しかし、その背後ですでに少子化への道は始まっていたのだ。

その結果、人口が増加するから分野を限らない需要増を信じられるという状態が静かに崩壊する。

その一方で、後発国の経済発展が問題となる。この後発国の発展は、最高の予測からすれば遅れた方だろう、というのは、制度が富裕層貧困層を乖離させていて、先進国の持つ効率性を獲得できていないからだ。それが、外が自然とそうなるようにしてしまった部分があるにしても、自覚的に権限を分散することの難しさを克服できなかったことは事実に過ぎない。政治は理論ではなく感情の慣性が大きい。

この後発国の非効率が先進国を助けただろう。

非効率とはいえ後発国も成長した。食料は工場で作る技術が研究されているが、おそらく間に合わないし、俺は直感的に植物が土中と水中では微量元素を吸収する上で違いを持つと思うし、それがどういう栄養素の不足に繋がるか分からない。光よりも土や季節の湿度の問題が繊細と思うのだ。水生植物の水耕栽培なら理解できるが……。それに、NSKの三つが鉱石から化学肥料として生産可能になったために、生産力が高まったことを考えると、結局はその三元素の争奪戦になる。鉱石抜きで工場栽培を考えている人間はさすがにいないのではないか。

しかし、それを見ずに人口増に対応できると思えない。

本来、日本の農地は余っているし、残飯は捨て続けられているし、食料自給率の問題ではなく文化の問題なのだ。数字だけおっかけても駄目だと思う。

老後を、過去の自分が養う構想は、やはり限界があった。社会全体で養う意識が必要だ。その意識があれば、自分と同じだけの人間を育てなければ、老後が苦しくなるという未来が直感的に理解しやすかろう(だが、実際人口全体から考えると今の日本は人口過多だし、それを減らしても一対一ではなくて一対多を養う甲斐性が日本人にはあるだろうと思う。ただ、それも今後100年に限った話でいつかは人口を安定させなければならないだろう。それがSFが予想する退屈な停滞した未来の姿になるかどうかは別として)。

社会全体で養うとは、実際に年金がその仕組みになっているのだが、不完全なためにそういう意識を国民に持たせられていない。なぜなら、年金を徴収する際に、将来の金利を提示しているからだ。将来の年金は現役労働者人口に依存するということにしたら、わかりやすい。

年金を高金利で回すには、優秀な子供たちを社会全体で育てることが必要となる。

その視点からすれば、今の60代以上は確かに戦後の高度経済成長を支えたかもしれないが、未来への投資を怠り、実態的には年金を高金利で回すことに失敗したのだ。

その点の反省くらいしてほしいものだ。

実際に、走りながらそんな判断はできないのは仕方ない。しかし、走り終えたところで一休みして、ここまでのレース展開を反省することができないのは、駄目だ。一応、まだ走れると思うのなら、そういうプロ意識を忘れてもらっては困る。もう走れないなら、もう少し黙れ。

特に、政局をパワーで動かすのが好きな連中。

力を発揮するには、力が集中していることが必要だ。

それは、分散化の現代に反している。

クラウド・コンピューティングとは、分散処理と、並行処理と、かつ多発的なアイディアの発言を歓迎するイメージだ。

この意を転用するならば、通貨のポイント化や電子マネー化や、地域通貨というのは、クラウド・マネタイジング、なんて言えるかもしれない。

それは、信用の分散であり、情報化による恩恵で、情報によって多様な形で第三者を介した身分保証ができるようになった証拠だ。(国だけが通貨を発行できたのは、国という組織だけが存在を全国に知られて、その通貨の保証をその見たことがないものが行うことを信じられたからだ)。だから、個人情報に値が付いて取引されるようになり、法で保護されるようになった。

そういうバラバラの個人をまとめあげるなんらかの仕組みというのが、まだイメージすらつかまれていない。そこを、利潤第一主義の連中に各個撃破されてるような現状のような感じ。

分散と集中のバランスの問題だ。

家族は必要だ。

コミュニティは必要だ。

その中で個人が尊重される必要がある。

その見極めが、礼だろう。

仕事と生活のバランスは義だろう。

そういう道徳観を形成するには、話し合っていく必要がある。

新しい人が入ってくれば、新しい価値観が添加されて既存の道徳観は揺らぐ。

今のネットだってそうだ。著作権など、価値観が揺らいで議論が巻き起こっている。

道徳とは、みんなが気持ちよくすごすための共通認識だから、破られれば居心地のよさが求められて議論が発生する。

議論する心の余裕は、時間の余裕から生まれる。

時間くれ。ほんと。