チェーホフ 作・小野理子 訳『桜の園』岩波文庫

悲劇的に演じられることが多いこの劇、作者チェーホフは喜劇として作ったらしい。

確かに、悲劇としてはラストシーンはあまりにも穏やかだ。

しかし、喜劇としてはどうだろう?

あれだけ思い悩んで悲劇が今にも起ころう、起ころうとしていたのに、終わってみればなんのことはない。

リューバは元の鞘として収まり、それぞれがそれぞれに新しい居場所へと去っていく。

すべてはロパーヒンが言っていた通り、桜の園は売れてなくなってしまい、みんなは幸せになる…かもしれないというラスト。

病気だというフィールスさえ、まだまだ死にそうになく、よもや、あのまま死んだとしてもそれは悲劇的な印象を与えない。

それまでの悲劇的な空気は実は登場人物たちの主観の中にしかなかった。

立場が変わってしまえば消え去ってしまう。

その取り越し苦労という結果をいつでも人はコメディと感じ、その打って変わった空気の中で笑おうとする。

その悲劇的空気からの落差は観客を困惑させるだろう。

むしろ演じる側すらも、困惑するかもしれない。

取り越し苦労を演じるというのはひどく難しい。

悩みに落ちて沈むことはたやすい。実際の人生においても。不幸は幸せと同じくらい酔い易いもの。

しかし、事態が好転することをあらかじめ知りおいて尚、それをあくまで真面目に悲劇的に演じることがこの作品では要求される。その過程の悲劇性が深いほど、取り越し苦労に終わった場合の滑稽さは増す。始めから滑稽に演じることは容易い。その滑稽と生真面目のバランスが難しいのだろう。

特に、ロパーヒンの難しさ。

彼は、桜の園やラネーフスカヤ夫人とその一家を愛している。

しかし、その愛の中に彼はラネーフスカヤ夫人を一番上位に置き、その一番下位に桜の園を置く。

だから彼は一家を救うために一家がその分身とすら考えている節のある桜の園を伐り払うことを実行する。その決定までの苦悩と、それに酔っている彼の悲劇性、そして彼の苦悩が認められず、夫人は駄目な夫の下へと帰っていくというラスト、しかし、それは彼が予想していたものなのだ。それは、大変、喜劇的だ。

養女・ワーリャとの関係も、複雑だ。

ある意味では彼らは同じくラネーフスカヤ夫人を愛する者であり、むしろ兄妹のような関係であると言えるだろう。仲が良いけれど、それはラネーフスカヤ夫人を介した仲の良さなのだ。

そういう複雑さは、ある意味、ピョートルの単純さに救われている部分がある。

ピョートルは単純な考え方をしている。逆説的な表現だが、複雑な言い方をしているだけで、彼の考え方は実際はかなりシンプルだ。確かに、複雑な事象に単純な説明を与えるのが学者だ。複雑な言い方をするのは下手な学者だが、シンプルに捉えようとする資質は正しい。

そういう細かい部分で魅力的なものはあるけれど、僕はこの『桜の園』を目指した太宰の『斜陽』の方が好きだな。

なんというか、それはロシア好みか、日本好みかの違いでしかないのだろうけれど。

桜の園』は、冬はつらいけれど春はまた来る、という感覚が強い。

『斜陽』は、夜が来るけれど日はまた昇り繰り返す、という感覚がする。

そういう自然との係わり合いの感覚の問題であるかもしれない。

その悲劇性の度合いは、冬の辛さ、闇夜の深さに比例するのだろうか?

そしてその結果、たとえそれを作者が喜劇的と感じていても、もっと暖かな地に暮らすものには悲劇に見えてしまうものかもしれない。

※これの前に読んだ『斜陽』の感想はこちら→「太宰治『斜陽』新潮文庫/読書感想」