是認/自己言及

気がつくと自分を居ないものとして扱ってくれることを期待している。

それは、僕が自身を居ないものとして扱いたいという願望の延長に現れたものだ。

それが楽であると裏打ちするだけの経験がそういう願望の源泉となっている。

とはいえ、そういう弱さは改めなければならないのだけれど、どうしても取り去りきれない。

水辺に喩えるならば、取り去ろうと手を差し入れると水流が掻き乱され、拾い上げようとしたものが濁りの向こうに見えなくなるように、その心の動きの形―すなわち起源であるとか、私がそれをどう取り扱ってきたかという履歴のすべて―が掴み取れなくなってしまう。

いじめ、あるいはそれに類するものは、対象の存在を否定し、対象がそれに抗おうとして果たせない姿を愉しむものだ。

対象は、その否定される箇所であるところの、その所属する組織集団あるいは集団への所属の形態を変更するしかない。(組織集団とは、単なる集合でない組織された集団のことだ)

前者を選べば、組織集団を去ることになる。それは例えば、転居、転校、転属、転職や死などによって物理的に立ち去る方法もあるし、その組織集団を中心として生活しているからこそ抜けるに抜けられないジレンマがあって苦しむのであるから裏返せばその組織集団以外に精神的な拠り所を見出すことによって精神的にこれを遠ざける方法もある。しかし、後者はやがてその新たな精神的な拠り所への決定的な排除を組織集団は試みるであろう。

後者を選べば、つまり否定される存在としての自己を受け入れることとなる。抗うことをやめることで精神が安定を得るのだ。居ても居なくてもいい存在が選択肢として否定を突きつけられているという状況にする。それはこちらの見方を変える事によって得られる論理的整合性であるから、安定する。

さて、誰が俺を一番否定して来たかというと、それは俺自身に他ならない。サボり気味の所とか、特に嫌いだ。存在そのものが無駄で、さっさとリサイクルに回されるべきだと思う。

その自業自得の形式なんてどんどん埋め立ててしまわなければいけないのに、後生大事にずっと抱えて反芻し続けてきたのはずっと復讐を志してきたからなのであった。復讐を熱量として自己否定を反駁する内部抗争が意志決定の拮抗をもたらし、当面の生を愉しむ空白を生み出していた。

もう、それはどうでもよくなって新しいモチベーションを持ちつつあるのだけれど、まだまだ新たな自己否定する隙を与えないような生活をできていないし、それらを埋め立てるだけの新しい記憶が足りていない。

つまりもっと僕は頑張った生活を自ら構築しなければならないんだと思う。

それは分かっているんだけど、どうにも下手くそなんだよなぁ。

そういうめんどくさいのが手足を重くして、めんどくさいことがいろいろと後回しになっています。

(反応を計算するのがめんどくさいと思っているけれど、それは他者までを計算できるという考えが背景にあって、それはうぬぼれというべきなんだよな。人々は行動してそれへの反応を見て随時軌道修正している。その反応を察知することがどうしても苦手で、その他人を見ないところが排除される原因になるのだよな。というのは、例えば人の顔を思い浮かべようとして上手くいかないことから考えるに、人の顔を見ていないからなんだよなぁ。絵を書こうとしても現実の人間の顔をうまく思い浮かべられない。何を見て生きているのだろうね?)